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2009/07/23

7月12日メッセージ「水の上を歩いて」

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。      マタイ14:25~27(22~36)

《強いて舟に乗り込ませ》

神を信じ、聖書の教えに従ったのに、なぜこのような事態に陥ってしまったのか。無信仰の周囲の人たちは、何の問題も抱えずに羨ましい営みを続けているのに・・・。イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませたのに、舟は向かい風に悩まされ、一晩中苦労することになった。イエスはこの気象状況を予知できなかったのか。この時刻に難儀させるとは不親切ではないか。自分たちは、本当は陸路を行くか、そこに留まりたかったのに、との弟子たちの愚痴が聞こえて来る。しかも命じた方はここにはいない。苦労しているのは自分たちだけ。ではここに見えない主は、何をしておられるのか。山で祈っておられた。苦労している弟子たちをさておいてか。いや、つぶやき、恐れ、溺れる彼らのために、イエスは祈っておられた。私たちは試練を経て本当の信仰に導かれる(エペソ3:19~20、ヨハネ4:42)

《すると夜中の三時ごろ》

5千人の給食という偉大な奇跡、豊かな恵みを経験した後、弟子たちは主を離れ、自分たちだけで舟を漕いで行かなければならなかった。ヨハネ16:7参照。だが主は彼らのために祈っておられた。私たちもまた、小さな舟で、嵐の、夜の海を渡るような時がある。自分たちの手ではどうしようもない。夕方から漕ぎ出し、もう何時間にもなる。だがその旅を命じた方はこのことを忘れない。彼らは主の祈りの中に置かれていた。忘れられてはいない。夜通しの悩みを主はご覧になっている。神の介入、主の助けにも時がある(伝道者の書3:1他)。彼らの自力が尽きた時、人間の可能性が尽きたところに、主は介入なさる。山の上におられるイエスは、湖上の弟子たちを助けるため、湖の上を歩いて彼らのところに行かれた。主イエスの来られない場所はない。罪人の頭と言われるほどの汚れた人の所にも、主はその救いの願いに応え、十字架の橋を設けて行かれる。主の救いの御手は長い(イザヤ59:1参照)。

《イエスのもとに》

予想外の主イエスの出現に、恐れおびえてしまった弟子たちに、主は「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われる。信仰とは、この「わたしだ、わたしである」と言われる方を、信じ見つめ、行動することだ。安心して終わりではない。ペテロの行動は失敗でもあったが教会のモデルでもあり、私たちに行動を促すものだ。神は、私たちが必要とするなら水の上も歩けるようにもなさる(マタイ22:21)。ペテロは、半信半疑で行動を起こしたのであろう。風が浪を起こすと恐れてしまった。「水の上を歩いて、あなたのところまで来い」(28節)とのイエスの命があるならば、私たちは沈むことがない。周囲に囚われ、イエスから目を離してならない(ヘブル12:2)。ペテロも、そして私たちも沈むことがある。だが決して沈むことのない主イエスが、御手をもって救い出してくださる(ヨハネ15:16)。

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