みことばアラカルト

2011/10/02

神の憐れみを求めて

神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。(ルカ福音書18章13節)

私たちキリスト者は、互いを兄弟姉妹と呼び、時には心を一つにして神の前にいるとも言う。しかし、残念なことに、互いの間には溝があり壁のあることを、認めざるを得ない。

何かあると、兄弟や家族、仲間の間に簡単に軋轢が生じる。高ぶる者は早速、相手の問題点を指摘し、自分の意見や行動の正義であることを相手に主張し続け、高い壁を築く。卑屈になる側は、相手の立派な正論に抗することも出来ず、心で相手を裁きつつ卑屈に肯き、恨みの溝を超えがたく深くする。

私たちに共通点はないのか。高ぶりの壁も壊され卑屈の溝も埋められる同一の立場はないのか。それはこの言葉にある。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」である。自分の罪を知って、神の憐れみを求めて御前に立つ時、人はまったくの平等となる。各自が自分の罪を自覚し、聖い神に向かって共に立つ時、人は仲間を非難することなど出来なくなる。

~機関誌「いこい」2011年8月号より抜粋~

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2011/08/07

謙遜をもって

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(旧約聖書箴言16章18節)

今回の東日本大地震は、私たちの安心を一瞬にして砕き、人の営みの脆さを教えた。長年培った経験も万全ではないことを示した。「想定外」という言葉が飛び交ったが、この想定が、実に自分勝手な都合の良い思い込みで、その根底に高慢な思いがあったことを示した。それが、原子力発電所の事故となると、当事者だけで済む問題ではなくなる。これは東電だけでなく、容認してきた社会全体の責任でもある。

以前、ヒマラヤの名峰に初登頂した快挙を、新聞は「○△登山隊、□○を征服!」と報じた。何とか山頂に足跡を印した行動を、征服とは大げさだ。原子力発電の根底にもそのような考えがあるように思える。核分裂を何とか統御可能になったからと始めた原子力発電が、今回の事件で、ほとんどが未解決の分野のある、極めて危険を伴うものであることが明白となった。

能力を過信してはならない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」(箴言18章)ともある聖書の警告を銘記し、臆病にならず、しかし謙虚な姿勢で事に取り組みたいものだ。

~機関誌「いこい」2011年7月号より抜粋~

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2011/06/30

人生に実りを結ぶために

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネ15:5)

幹から切り離された枝に、誰も成長や実りを期待しない。当たり前の、わかりきった話である。だが信仰者の私たちは、いまだもってこのたとえを理解していない。神の祝福など頼らなくとも、自分が努力し頑張れば、それなりの結果が得られると考える。

私たちは、自分が今得ている立場や境遇を、神に感謝していないわけではない。でも、どこかで「これはオレの努力の結果、能力の成果だ」という思いがあるし、周囲の人も「彼はえらい」と評価する。だから成功と思われるところには自信過剰の傲慢さが生じる。逆に思うように行かない場合は、「オレがダメだから」と自信喪失の劣等感を抱え、周囲からも軽蔑されがちだ。

電球は電源とつながってさえいれば、おのずと明るく輝く。クリスチャンも同じで、彼に大事なことは、幹であるキリストにつながっていることだ。枝が、良い幹につながっておれば必ず豊かな実を結ぶように、失敗続きの私たちも、難問を抱える家庭も、キリストにつながることで、充分な祝福の恵みを得、実を結ぶ。

~機関誌「いこい」2011年6月号より抜粋~

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2011/06/15

最後の審判の警告

「そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ24:51)

福島の原発事故は未だ終息の足取りが見えない。甚大な被害が今後どのように拡大するのか不安である。原因は、発電装置が想定外の津波に破壊され、初期の冷却がストップしたためだと言う。大津波を予想し、安全な場所に予備電源を確保しておけば、と今になって痛感する。被災する前には、莫大な費用に躊躇し、言い訳を作って放置していたのだが。

恐らく最後の審判の日には、牧師である私は、多くの信徒や周囲の人々から、恨みや非難の言葉を投げつけられるだろう。「なぜ、はっきりと、厳しく、私に言ってくれなかったのか。」「神を畏れ、キリストを信じ、彼に従って生きるようにと、強く勧めてくれなかったのか。」「あの時ならまだ間に合ったはずなのに」等と。

どれほどの地震が、津波が起こるのか、予想は難しい。冒頭の聖句は、キリストの最後の審判の警告である。これがたわごとであれば、無視しても何の問題もない。だがキリストの言葉が真実であれば、私たちの今の生活は、早急に変えなければならない。

~機関誌「いこい」2011年5月号より抜粋~

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2011/05/31

同胞の困難のために

すると、王は彼らに答えて言います。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

東北関東大震災に、まだ心が震えて案じざるを得ない、落ち着かない日々が続く。またなかなか終息しない原子炉事故の今後に不安を禁じえない。このまだまだ山ほどの大きな課題を被災者はじめ。国家や地域も抱えている。もちろん同時代に、同胞の遭遇している困難は、私たちの問題でもある。どう関わるかが、私たちは今問われている。

冒頭の聖句は、再臨の主イエスが、私たちにどう生きたかを問われる際の基準として言われた言葉である。「あなたがたが、最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたし(イエス)にしたのです」。どのようにしたのか、空腹の時に食べ物を与え、渇いている時に飲ませ、旅人であった時に宿を貸し、裸であった時に着物を与え、病気の時に見舞う等である。

私たちの主は、空腹と寒さ、病いと不安、不自由さと絶望の中にある被災者の方々と共におられる。犠牲を惜しまず、祈り、精一杯応援しよう。

~機関誌「いこい」2011年4月号より抜粋~

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2011/04/16

他の人を顧みて

「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。」(ピリピ書2章4~5節)

私たちは利己的な性格から抜けきれない。自分が感じ考えることが標準だと自動的に思い込む傾向があり、隣人が別の気持ちになっていることにまでは思いが及ばないし聞こうともしない。

聖書は「自分のことを顧みるな」とは言っていない。私たちは神の配慮の中に守られていることを承知している。だから、隣人を顧みて犠牲を払うことが出来る立場にある。いつまでも自己中心的な思いで、自分の好みや願うこと、自分の損得や評価が損なわれないこと等に止まっているのでは、成長の止まった幼児性の抜けないクリスチャンと言われても仕方がない。

私たちが生かされているのは、「他の人のことをも顧みる」つまり隣人に仕えるためである。私たちの周囲の「他の人、隣人」は私たちの何らかの助けを必要としているものだ。また教会の働きにも寄与することをも期待されている。この点にも顧みることをして参加し、仕えよう。隣人の立場や思いに心を向けて「顧みて」、自分に求められていることに気づいて、小さな愛の行為、僅かな犠牲を払い始めよう。

~機関誌「いこい」2011年3月号より抜粋~

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2011/04/01

荒れ地を潤す神

「主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。」(イザヤ58章11節)

先日の新聞に、アラビヤ砂漠が以前は豊かな草原と湖に覆われていた時代があったと記されていた。広大な砂漠の広がる今では、ちょっと想像しにくい光景だが、実際そうであったらしい。逆に聖書は、神であるなら砂漠を沃野にも変えることが出来ると記している。「確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。・・わたしが荒野に水をわき出させ、荒れ地に川を流し」(イザヤ43:19、20)との約束がある。

問題は、荒れ地でもなければ、潤された園でもない。土地をそのどちらにもすることの出来る神である。その神の前で、自分がどのように生きているかである。誠実な信仰者として、神を畏れ、愛し、信頼して従って歩んでいるなら、その人の営みに恐れることはない。たとえ焼け付く不毛の大地に置かれているように見えても、やがて来る雨が大地を潤された園に変える。

だが今は順調でも、もし不義と不信の中に過ごしているなら、不毛の時代がやがて来ることは避け得ない。

~機関誌「いこい」2011年2月号より抜粋~

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2011/03/20

愛と心理

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することが出来るためなのです。」(エペソ書4章15節)

真理は人に進むべき道を教え、愛は進み行く力を与える。人が成長するにはこの二つを欠かせない。聖書の語る愛と真実は、キリストにおいては一つである。愛を欠いた真理は人を傷つけ痛める。また真理を抜きにした愛は怠惰と放縦を生み、愛本来の働きを失う。

これと似て、私たちの間でよくあることは、真理とまでは言わないが「これが正論だ」と振りかざすことだ。どうでも良いことに意地を張り、自分の正しさを認めさせようと執着する。人は誰もみな愚かさを持ち、弱さを抱えている。それを反論し得ない正論を持ち出して裁かれてはたまらない。

正論は、道理は通るが人の心には届かない。それは決して人を生かさない。道理が通っていなくとも、人に届く緩やかさ、それが愛のある正論であろう。道理が通らないからと言ってこれを退けてはならない。人間の弱さに対する洞察において、正論は愛に遠く及ばない。いや愛を伴っての正論こそが、互いを育てる。 

~機関誌「いこい」2010年11月号より抜粋~

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2011/03/09

他の人を顧みる

「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」(ピリピ書2章3、4節)

生い茂っていた畑の雑草を抜いて、「さあ、ここに何を蒔こうか・・・」と思案して二週間、畑はもう雑草で覆われている。人の心も、ちょっと油断すると「自己中心」と「虚栄」に類するものが人の心を占拠し、利己的な考え方に傾き、その言動を支配してしまう。

親切に人のことを気遣っているような振る舞いも、相手に良く思われたい、周囲の者から「親切な人だ、良くやっている」との評価を得たいという思いが根底にあったりする。利己的な計算や、嫉妬や見栄、競争心からの見せかけの善行が少なくない。人は皆、周囲の者が自分に目を向けてくれること、自分の大変さに同情し、理解して欲しいと願う自己中心性と、立派だと評価して欲しいという虚栄から抜け出られず、そうしてもらえない現状に不満不平の思いが尽きることなく湧いてくる。これが人を憂鬱に閉じ込めてしまう。

だが冒頭の聖句のように、実際に「他の人を顧みる」と、人は自己憐憫から解放され、自分の悩みや悲しみから脱出できる。

~機関誌「いこい」2010年10月号より抜粋~

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2010/11/28

手のひらにあなたを刻む神

「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」(イザヤ49:15、16)

不信のイスラエルの民は、神の懲らしめとして、やがて祖国を失い、遠くバビロンの地に捕囚の民をして暮らさざるを得なくなる。己の罪の結果ではあるが、神からも見放されたような、絶望的な境遇の中で、何を手がかりに生きればよいのか。そのような思いに沈むであろう信仰の民に、神は預言者イザヤを通して上記の言葉を語られた。

母が自分のお腹を痛めて産んだ赤子を、忘れたり愛情が失せたりすることは通常有り得ない。そのように、神は私たちを、ご自分の赤子のように愛情を込めて扱ってくださる。それを上記の表現に込めておられる。

主イエスを信じる私たちを、神は忘れることはない、何かをしようとする場合、いやでも目に入る手のひらに、私たちの名前を刻んで覚えていると言われる。エルサレムの城壁を見守るように、私たちの家庭生活を視野に入れ、保護と祝福を注いでくださる。これが私たちの神である。

~機関紙「いこい」2010年12月号より抜粋~


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