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2010/09/14

9月12日メッセージ「年老いた時も」

「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。・・・・年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。」                  詩篇71篇5~9節

長寿は祝うべきことだろうが、生産性や効率、そして成功が尊ばれる現代社会では、単純に喜べない環境となっている。高齢者が人々の冠とはみなされず、今や働く能力を喪失し人の補助を要求する「余計者」と言ったレッテルが貼られているようだ。家族に過度の負担をかけ、介護者に自分を任せなければならない状況もあり得ることを考えると、老いることが恐怖ともなる。釈迦は人生の苦しみを「生老病死」の四苦と表現し、「老い」を四大苦の一つに数えている。では聖書では、老いをどのように捉えているのだろうか。詩篇71篇は、9、18節に「年老いた時も、しらがになっていても」とあるように、老境の人の貴重な歌である。ここから老いと信仰について学ぼう。

《一日中あなたの義と救いを》

貴重な長い人生を経た老人は、それだけでも尊敬に値する。人の営みのすべてに、神が関わっておられるとしたならば、信仰の目に焼き付いた神のみ業の数々はどんなにか豊かなことだろう。老人に繰り言は付き物のように言われる。だが詩人は、愚痴をこぼすのでもなければ、自慢話を繰り返して続けるのでもない、「私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが」と、神を語る。神の救いの業、いわば十字架の救いを喜びをもって語る。しかも自分の体験や言葉は、その恩寵の一部を垣間見、味わっただけであるが、と謙遜に。神の慈愛と力の一部であっても、それを語るに24時間では足りず、「私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます」と告白する(18)。己の事を語る暇はないと。

《苦境にあっても》

老いて安泰をと人は望む。だが必ずしもそうならない。義人が安らかな老境を迎えるとも限らない。だが、より大事なことは敗北や苦境・不成功を受容することだ。それが出来ることこそ信仰の奇跡だ。詩人は老いてなお襲う苦難からの救出を願う。「私が決して恥を見ないようにしてください・・・私を救い出し、私を助け出してください。あなたの耳を私に傾け、私をお救いください。」(1、2、他に9、12)と。信仰の長い人生体験が、神の豊かな救出を確証させているからだ。「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です」(5、6)。神の助けは、詩人ひとりの確信に止まらず、仲間も保証する「避け所」だ(7)。助けを祈りつつそれを確信し、竪をとって勝利の歌を奏で、賛美を一日中捧げる(8、20)。

《私の偉大さを増し》

愚痴らず、自慢せず、ひたすら神のみ業を証し、賛美に一日を費やす老いとは。そして、身は老いしなえようと、み国に近づく者として最後のご奉公と願い、「あなたが私の偉大さを増してくださるように」と祈る(21)。確かに罪深く無力な私であることは承知している。だが神の御子の身代わりに生かされているわが身の偉大さを自覚し、この身をもって神の栄光を、と老いてなお希望する。間もなくの天国への備えとして。

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