« 真に生きるということ | トップページ | 9月5日ニュース »

2010/09/07

9月5日メッセージ「わたしは十字架に向う」

「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。 マタイ福音書26:56(47~56)

主イエスは逮捕される際、ユダと弟子たちと群集の三者にそれぞれに言われた言葉に注目しよう。

《何のために来たのか》

ユダは「12弟子のひとり」とある。彼は、イエス殺害を狙っている祭司長たちとすでに裏切る取引をし、それを実行しようと近づいた。その彼を、今なおご自分の愛すべき弟子のひとりに数え、「友よ」と呼びかけた。主がそう呼んだのは、当てこすりではない。深い悲しみの中でも愛は尽きず、最後の瞬間まで悔い改めを願ってのことであったのだろう。
「あなたは何のために」は「あなたのしようとしていることをせよ」とも訳せる。イエスは、接吻が捕縛の合図だと承知した上でそれを受け、自らを敵の手に委ねられたのである。裏切りの印が親愛の接吻であった。罪は「つつみ隠す」という傾向を持ち、悪を善いもので包むものだ。ヤコブは兄エソウのふりをして父に接吻し祝福を受け(創世27:26)、将軍ヨアブはアマサに接吻するふりをして殺した(Ⅱ列王20:9)。私たちは礼拝に集い主の晩餐に与かる。だが神に「ここに何のために来ているのか」と問われ、あなたはその敬虔な礼拝にふさわしく、神への感謝と信頼と愛にいますと答えられるか。

《聖書が実現するか》

死を賭してもイエスを守ると宣言したペテロは、剣をかざして敵に向った(35、ヨハネ18:10)。百名を越える相手に小さな剣で対抗するには相当の勇気を要する。だが怒号の中で恐怖にかられ、逆上して剣を振るうことは蛮勇に過ぎず、信仰から出た行為ではない。そんな類の勇気は、「あなたもあのイエスをいっしょにいましたね」と言われ、「私は知らない」と裏切る結果となる。主は、天使の大軍団も動員出来る。だが大事なことは己の身を守ることではない、聖書に服従することだ。聖書に従う道は、敗北や失敗にも見え、悪魔の力に翻弄されるかに思える。だが、神の言葉は決して廃れず成就する(イザヤ40:8)。だから私たちは、聖書を信じ、聖書に従い、それを剣として闘う(エペソ6:17)。

《強盗にでも向うように》

主イエスの「剣を取る者はみな剣で滅びます」とは、ご自分が遂げようとする救いの道は剣や力によらず、それらを放棄し敵の手に自らを渡すところにあるとの宣言であろう(54,16:21)。ペテロは後日、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」と記している(2:21~23)。ゲッセマネでの激しい祈りの末に、イエスは確信をもって、「こうならなければならないと書いてある聖書の実現」に身を投じられた(参照イザヤ53:7~11)。だが、祈りの機会を逸した弟子たちは「みな、イエスを捨てて逃げてしまった。」(56)。そんな弟子たちと、敵意と恐れで棒や剣を構えて捕らえようとやって来た群衆の救いのために、主は十字架に向かわれる。

|

« 真に生きるということ | トップページ | 9月5日ニュース »

礼拝説教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543924/49377926

この記事へのトラックバック一覧です: 9月5日メッセージ「わたしは十字架に向う」:

« 真に生きるということ | トップページ | 9月5日ニュース »