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2010/10/12

10月10日メッセージ「これはユダヤ人の王イエス」

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。」 マタイ27章39~42節(27~44節)

《むりやり十字架を背負わせ》

処刑場までの道程で記されているのは、クレネ人シモンがイエスの十字架を無理に背負わされた、ということだけだ。たまたまそこを通りかかったシモンは、ローマ兵から十字架の横木を担がされる羽目になった。囚人の荷を肩代わりして背負わされるとは、屈辱的な見せ物にされ、まったく余計な苦行を科される迷惑なことにほかならない。だが「アレキサンデルとルポスとの父でシモンという」(マルコ15:21)と紹介されるように、このことがきっかけでシモンは救いに与り、息子たちもクリスチャンとなったと思われる。十字架を強いられて負い、イエスに従う。その嫌悪すべきやっかいな行程を通して、私たちはキリストを知り、その恵みに与る。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)。また、私たちの望みに逆行し負わされる十字架は、光栄あるキリストの苦悩の一端に与ることでもある(Ⅰペテロ4:13)。

《イエスをあざけって》

残酷なムチ打ち、ゴルゴタまでの痛々しい行進、激痛の十字架刑で、主が味合われた苦しみを詳しくは描写していない。特筆されているのは嘲笑と軽蔑だ。聖書は十字架の主イエスがお受けになった扱いの中心を、「人々の侮蔑」と記している。兵士は王様ゴッコで小馬鹿にし(28~31)、群衆、祭司長たちだけでない、同じ刑に処される強盗たちも罵っている(39~44)。なぜか。王であり救い主と自称しても、兵も力も威厳も見えず、確かに多くの人を助け出したが、肝心の自分自身を苦境から救い出せないでいる。常識は、先ず自分を救済し、残った力で他人を助けるものだと教える。だが主イエスは、人の救いのためにご自分を犠牲になさる(イザヤ53:3、8)。だが、そのようなあまりにも大きい神の愛と犠牲を、誰ひとり理解できない。今も同じ、クリスチャンであっても理解しがたい。

《自分は救えない》

「ユダヤ人の王」とは誰も思わない。だが「ユダヤ人の王イエスである」の罪状書きは、真実である。主イエスは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」であり(2:2)、断じて無力ではない。今、罪のため呪われ、やがて神の怒りの裁きに服さざるを得ないご自分の民のために、聖書の預言の通りに、十字架に自らをお架けになったのである(詩篇22:6~18)。神の御子である方が、一言で嵐を静め、不治の病を癒す方、湖上を歩む方が、その一切の力を込めて王としての務めを果たそうと、「自分を救えないのか」という嘲りの嵐の中で、十字架に留まっておられる。ここに愛と、救いがある。

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