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2010/10/05

10月3日メッセージ「不義の中の愛と真実」

すると、民衆はみな答えて言った。「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。 マタイ27章25、26節(11~26節)

礼拝は、神を賛美し説教を聞くだけの場所だと思い違いしてはならない。人は先ず自分の罪を告白し神の赦しを得ずに神を礼拝することは出来ない。そして人の罪は、キリストの十字架の前で明らかにされる。ローマ総督ピラトの裁判の際の、ピラトと民衆と、そして裁かれたイエスの姿から次のことを学ぶ。

《ピラトの罪》

教会が古くから告白してきた使徒信条に「主は・・・ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」とある。確かにピラトはユダヤ人を軽蔑し残忍な行為を繰り返した総督であった。だがイエスに対しては、悪意を抱かず無罪を信じており、出来れば助けようとした。だが群衆の騒ぎを前にし、暴動が起きては自分の責任問題となるのを恐れた。その厄介から逃れようと、やむを得ず、正義の裁定を下す立場にありながら、イエスに十字架刑を言い渡した。主イエスの教えとみ業と存在は、この世ではしばしば「やっかいな異物」となる。この世の価値観、流儀に生きようとすると、最後にはイエスを排除せざるを得なくなる(ヤコブ4:4)。多くの人は、ピラトのように、イエスの言葉に感銘しその正義に同意しながらも自分自身の保身のため、最後にはイエスを邪魔者として殺害する。本当はそうしたくないが事情が事情だ、責任は向こうにあると言い訳しながら、イエスを十字架に追いやる(24参照)。この姿勢はピラトだけのものではない。Ⅰヨハネ2:15。

《群衆の罪》

この裁判で主導権を持ったのは、総督ではなく群衆である。マタイ福音書では、群衆はいつも主イエスに愛される対象として登場した。「群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた」(9:36、参照14:14)。主は、群衆の悲惨な境遇を「深くあわれんで」関わって来られた。イエスはいったい彼らにどんな悪を働いたのだろうか。否、足なえを立たせ、盲人の目を開き、らい病人をきよめてくださった方である(15:30)。だが今、受けた愛と恵みの業を忘れ、彼らは祭司長たちに扇動され、「十字架につけろ、つけるべきだ」と激しく叫んでいる(23)。「彼ら(群衆)がねたみから引き渡した」(18)とある。仲間の名声を妬み(13:55参照)、今はイエスの愛の業を忘れ、「ダビデの子よ」と歓呼したことも反古にし、群集心理に駆られ、無責任に「いのちの君を殺し」てしまった(使徒3:15)。これもまた他人事ではない。

《イエスの真実と愛》

ここでイエスは「一言もお答えになら」ず、終始沈黙しておられる。「ユダヤ人の王か」と問われ、「そのとおり」と答えられただけだ。これはイザヤ53:5~11の成就にほかならない。主イエスは富んでおられたが貧しくなられた(Ⅱコリント8:9)。群衆の、私たちの罪を、イエスは静かに我が身に引き受けて、十字架に向かわれたのである。相手の弱さ、醜さ、罪をも、ご自分の身に背負われたのである。ここに愛がある。

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