礼拝説教

2016/08/28

8月28日ニュース

《予 定》 
★本日の礼拝後、牧師宅で壮年会、教会堂において婦人夏の会と青年会を開きます。また4時より夕涼み会です。
★来月2日(金)にイトーピア集会が開かれます。
★5日(月)に軽井沢の神学校で入学式が開かれ、5名が入学します。新学期の祝福、さらに献身者が起こされますようにお祈り下さい。
★9日(金)にしいの木台集会が開かれます。
★11日(日)の礼拝は、敬老記念礼拝としてお献げします。老若男女が心一つにして主を崇め、互いに愛し合って主に仕える教会でありますように。また同日の例会後のお昼の時に22日に結婚されるマハー伝道師の送別の時を計画しています。
★柏伝道所の祝福のためにお祈り下さい。9月より月一度、柏のともしび配布の応援を計画しています。
★15日(木)に教会婦人会を開きます。説教者のマハー伝道師のためにお祈り下さい。
★18〜19日に手賀沼で京葉地区合同青年交わり会が開かれ、当教会からも参加します。この集いは諸教会の青年リーダーによって企画運営しています。本日夕方習志野教会でのリーダー会に当教会の青年役員が参加します。

《報 告》 
★今週22〜26日の合同で中高生キャンプから無事戻ってきました。お祈りを感謝します。本日礼拝であかしの時を持ちます。
★先主日、月例会を開き、新会堂の会計報告の承認および、9月18日の柏伝道所への牧師の出向を承認しました。9月18〜19日の三澤師の亀岡教会への出向の留守を守ります。
★病の方々のいやしと支え、また夏休み中の学生、受験や就職に臨む兄姉の支えと導きをお祈り下さい。

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8月28日メッセージ「父との一致の内に働かれる御子」

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なうのです。
ヨハネ5:19(15〜29)

 世の光として来られた救い主のみわざは、光を信じて人々に救いをもたらすと同時に、光を拒む罪をあらわにすること(3:17以降)が、現実となりました。しかし、迫害を通してイエス様は、ご自身がどんなお方であり、どんな救いをもたらすために来られたかをはっきりと示されました。

《第一に、敬虔に見える人の内を自己中心が支配していたことです(15〜18節)》 

礼拝を通して神の祝福をいただくために定められた安息日が(マルコ.2:27)、指導者の特権を守らせるための規定にされていました。安息日を破ったとして、指導者たちはイエス様をののしり非難します。イエスが神の子であることを認めず、神を冒涜していると怒って殺そうとしました。自分の信念が神のあかしよりも先になっていたからです。自己中心の深い根は、「自分が正しいとみなす」ものを基準にして、神に対しても譲ろうとしない所にあります。光である御子によって、罪の自己中心を暴かれた彼らは、救い主・神の御子を拒み、偽証によって訴え、不正な証言、裁判官を脅迫するまでして、キリストを死刑にすることでした。私たちは、主によって自分の罪が照らされた時に、拒んではなりません。

《第二に、御子キリストは、ご自身の全き義をあかしされました(19〜23節)》 

御子は、父への完全な愛と信頼と従順をもって、御父との一致をあかしされました。これが神との正しい関係、聖書の言う「義」です。さらに、御子は義の模範となるだけでなく、ご自身の完全な義を、私たちに与えられます。支配者たちは、キリストを十字架にかけ、これで邪魔物は去ったと安堵します。しかし御子は死者の中からよみがえられ、弟子たちの信仰をもよみがえらせます。そして彼らは、キリストの復活を力強く宣べ伝え、彼らを通してキリストの義が、迫害に勝利して広がり続けているのです。

《第三に、御子キリストはご自身の義を私たちに与えられます(24〜29節)》

 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(24節)。これは今いただいている救いです。この救いは、永遠に至ります。御子を信じた者は、朽ちない栄光のからだによみがえり、いつまでも主と共に神の祝福の内に生きます。それは、ただ神の御子を信じて救いの恵みを受けただけです。一方御子を信じない者は、終わりのさばきの時に、よみがえって永遠のさばきを受けます。かつて主を拒み教会を迫害した「罪人のかしら」であったパウロでさえ、キリストを信じてキリストに似た者に変えられ、こう証しします。「私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです」(2コリ13:8)。真理とはキリストです。

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2016/08/21

8月21日メッセージ「よくなりたいか・・・ベテスダの池での救い」

イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 ヨハネ5:6(1〜18)

 再び、祭りでエルサレムに上られたイエス様は、ベテスダの池に伏せっていた一人の男性に声をかけ、神の救いの恵みをあらわして下さいました。イエス様が彼にかけられた三つのことばに注目し、私たちもイエス様の語りかけを通して、主を知りましょう。

《第一に,すべてをご存じで「なおりたいか」と問いかけられました(5〜7節)》 

水面が動いた時に、最初に水に入ることのできた人がいやされると言われていたベテスダの池に、大勢の病人が回復を願って集まっていました。元気になって、ここから出られる希望は、先に水に入るかどうかにかかっているとされていました。他に先んじて勝者にならなければ、抜け出せないという状況は、競争社会の縮図でした。主から「なおりたいか」と問われても、男性は、自分を池に入れてくれる人がいないと希望のない答えしかできませんでした。しかし、主の厳しい問い掛けは、私たちを現実に向き会わせるための語りかけです。つらくとも、主の語りかけをすなおに受けましょう。それが恵みの始まりですから(申命32:39)。

《第二に、主のみことばは、信仰を通して力ある働きをします(8〜13節)》 

「イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した・・・」(8〜9節)。主のみことばは、彼の内に信仰を呼び覚まし、その信仰を通して主のことばの通りに、彼は立ち上がり床をたたんで歩き出しました。十字架の福音は、罪の中に留まるしかないとあきらめた人に、信仰を呼び覚まし、約束の救いをもたらします。しかし一方で、彼は支配者の敵意の対象になりました。いただいた主の恵みを、厳しく問いただされ、否定するようにと脅されます。私たちも主の恵みをいただこうとする時、反対を受けるでしょう。恵みの主のもとにしっかり留まりましょう。

《第三に、霊肉共に正しくなるように導いて下さいました(14〜18節)》

 「その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません・・・(14節)。もし彼が、病をいやされたところで満足してしまったら、罪の生活は正されません。救いの目的は、肉体だけ元気にされることではないのです。霊肉共に正しくされ、神との幸いな関係の内に歩み出し、創造された本来の目的である神の栄光をあらわす者になっていきます。神の前の健康は、罪に勝利する道を歩み出して始まります。
 「もう罪を冒してはならない」・・・病を厭い、神と自分をのろい、自分をそこなってきた彼でした。恵みをいただきながら、この罪を悔い改めなければ、神との幸いな関係は恵みをいただく前よりもさらに遠ざけられてしまいます。この人が、その後どうなったか聖書は沈黙しています。そして、私たちに毅然とイエス様の側に立つ決断を迫っているのです。明確な回心と、明確な献身をもって十字架の主に従わせて下さいと求めましょう。

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2016/08/14

8月14日メッセージ「王室の役人の息子のいやし」

 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。
ヨハネ4:50(46〜53)

 イエス様がサマリヤを通ってガリラヤに戻られた時、カペナウムに帰られる前に、かつて水をぶどう酒に変えられたカナに留まっておられました。その時、カペナウムにいた王室の役人の病気の息子が高熱のために死に瀕していました。この病を通してイエス様は、ご自身の栄光をあらわされます。みことばを見て行きましょう。

《父親は、息子のためにイエス様を探しに行きます(47節)》 

イエス様の家があったカペナウムに、その家族は住んでいました。既にイエス様は多くの病人をいやしておられました。高熱に苦しむ息子を見、案じた父親は、イエス様に望みをかけていましたが、主は、ユダヤに行かれて留守でした。その時にガリラヤのカナに入られたという事が知らされ、まる一日かけてその町に行きイエス様を探し当てて、「下って来て息子をいやしてくださるように」願います。イエス様ならば、家族を救ってくれると信じる思いが届いたのです。私たちも自分のためだけでなく、家族のために、イエス様を求めましょう。

《主は、ご自身のことばを信じて帰るように導かれました(:48〜50節)》

 主は言われます、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない」(48節)。自分が願っている結果を得られないかぎり信じようとしない態度は、この父親だけの態度ではありません。信じる信じないかを自分で結果を見て自分で判断するというけろ、高ぶりこそ私たちの不信仰の中心なのです。見ないでも信頼して信じる信仰が、罪から救われ、まだ見ぬ天国に入るために必要なのに、踏み出そうとしない不信仰です。その父親に、主は冒頭の聖句のように、見ないで信じるように語りかけられました。そして父親は主のことばを信じて帰途につきました(50節)。主は、権威あるみことばをもって命じられ、権威あるみことばによって保証されました。それを信じる信仰が必要です。主の権威あるみことばこそ、私たちに見ないで信じる救いの信仰を得させる神の力です(14:1、ローマ1:16)。

《父親の信じた信仰を通して、救いが家族に広がりました(:51〜54節)》

 みことばを信じて帰る途中、こちらに向かってくる召し使いから、息子の回復の朗報を聞きます。時間を問うと、それはちょうどイエス様が「あなたの息子は直っていますと言われた時でした。彼は、主が息子を直されたことを確信して、家の者たちにあかしします。こうして、父親も、母親も、息子も、しもべたちも、家の者全員が、イエス様を本当に救い主だと信じました。主の奇蹟は、私たちがこの方こそ聖書の約束した救い主であることを証明する「しるし」です。この奇蹟を通して、主は、イエス様は、見ないで信じる信仰こそ必要なこと。どんなに離れていても、すべてご存じでご自身のみわざをなして下さること。主が、信仰の正しさを証明し、家族や周囲も信じて救われるように導いて下さることです。

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2016/08/07

8月7日メッセージみこころを行なうことこそ糧「」

イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
ヨハネ4:34(27〜38)

 イエス様は弟子たちに、「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」とあかしされました。日常の事を通して、神に属する真理を教えられたのです。イエス様が食しておられる「真の食物」が何であるか、共にみことばから知りましょう。

《みこころを行ない完成することこそ生きる糧です(32〜34節)》 

第一に必要な食物は肉の糧ではありません。肉の食物は、生きているために必要ですが、それだけでは、人は十分に生きられないのです。イエス様は、父のみこころを成しとげるために地上に来られました(6:38)。これがイエス様の使命であり、私たちへの模範でした。私たちにとっても一番大切な生きる糧は「神からいただいた使命を全うすること」なのです。神の形として創造されました。つまり愛と信頼をもって、神様に委ねられた各自の働きを全うするために創造されたのです。みこころを行なって、神の栄光を現わさなければ、十分に生きているとは言えません。イエス様は祈りの模範として、神の栄光・みこころを第一に求めるよう教えられ、衣食住は、一番大切なもの「神の国とその義」に添えて与えられると約束されました(マタイ6:9〜10,33)。

《既に刈り入れ時が来ています(35〜36節)》

イエス様の働きはまだ始まったばかりで、弟子たちはまだまだと考えていたかも知れません。しかし、すでに終わりの時、刈り入れ時は、来ていました。救いのご計画はもう完成の時です。救い主が来られたからです。神の国に入れられる収穫の時が来ました。刈り入れの時を逃してはならないのです。私たちが元気に働ける期間、また相手の方々と関われる機会は、いつまでも続いているわけではありません。人のいのちは、思ったよりも短かいのです。祈り、(渡せる)資料、みことばの蓄えをもって、いつでもあかし・伝道できるように備えましょう。刈り入れることができたら、これまで労して下さった方々と共に喜ぶことができるのです。恐れないであかしし、案内を渡し、みことばを伝えましょう。

《他の人が蒔いた者を刈り取らせていただいています(37〜38節)》
 

「ひとりが種を蒔き、他の人が刈り取る」ということわざは本当です。人間の営みは、あらゆる分野において、先人の努力と工夫を受け継ぐ恩恵によって発展してきました。弟子たちが、イエス様に遣わされて、すぐに信じて弟子となる人々が起こされているのは、はるか前から、信仰を守り伝えた信仰者たち、困難の中で神のみことばを宣べ伝えた預言者たちの労苦が先にあったからでした(1ペテロ1:11〜12)。また何より、世界の基の据えられる前から計画し労して来られた主の恵みに依っているのです。私たちも、主と信仰の先輩方の労苦があったから今の祝福があることを忘れないようにしましょう。そして今私たちは、先輩たちの信仰の遺産を受け継ぎ、後代に伝える務めを委ねられています。大変な責任ですが、主は共にくびきを負って労して下さり、必要な助けに守られ、主にある労苦は無駄になりません。

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2016/08/02

7月31日目セージ「聖書の教える信仰」

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。      
へブル11:1

私たちの教会は、聖書を誤りのない神のことばと知的に承認するだけでなく、私たちへの神の指示書とも受け止め、全面的に聞き従うことが信仰だと理解している。冒頭の言葉は、「信仰とは、神が私に約束なさったがどんなに実現不可能に思えても、必ず実現すると確信して歩むこと」と定義している。神の約束こそが第一だが、その約束の成就を保証し、証拠となるのが信仰だと言う。その信仰を再考する。

《信仰は神の言葉に始まる》

神が保障なさる「望んでいる事がら」とは、信仰者への神の約束を指す。神は、言葉で天地創造をなさったように(詩篇33:6~9)、神がアブラハムに仰せられた約束に、彼が応じたことでイスラエルの歴史が始まった(創世記12:1)。ノアへの洪水の予告と箱舟による救済の約束で、彼は晴天の丘の上で巨大な船を造り始めた。私たちの都合や考えからではなく、神の御旨を求めて聴いて従おうとするところに、神は新事態を創造してくださる。神の言葉は、神からの使者のように使命を果たすものだ(イザヤ55:10~11)。先ずは神の言葉(キリストの福音)を聞くことを開始しよう(ロマ10:17)。

《信仰は行動を促す》

神の言葉は生きていて、私たちを行動に進ませる。聖書を読み、説教を聞いただけで終わっては、種蒔きの譬えの道端、岩地、いばらの地のようなもの、実を結ばない。聞いて理解し受け入れ、従うことで、六十倍百倍の実を結ぶ(マルコ4:20)。「聞く」という聖書の言葉は「聞いて従う」の意味だ。列挙されている旧約の信仰の偉人たちは、神の言葉を聞いてすぐ「これに従い・・・出て行きました」(8節)とあるように行動に移している。これが「信仰によって」の意味するところだ。聞いても聞かず(マタイ13:14)、聞いて理解したとしても実行しない者は愚か者だ(マタイ7:26)。聞いたなら、喜んで自分の今の道から方向を転換し、神に従う者となろう。神の言葉に従うに資格はいらない。遊女ラハブもその恵みに与った。大事なことは神の言葉に率直に従うことだ(31節)。

《信仰は現状に抗するもの》

神の約束が人の期待したように成就するなら、信仰は容易だ。だが、約束の達成を望めず、信じ従って来たことが無意味にしか考えられない事態の中で、信仰は試される。どんな状況にも抗して、神は求める者に報いてくださる方だと、なお信頼するのが信仰だ(6節)。信仰は、目の前の現実だけで神の答えのすべてとは考えず、それらもまた神の意の中での展開に過ぎず、神の時が来れば完成すると信じ、今の課題に誠実に取り組む。信仰の祖父たちは、約束の地で寄留者として天幕生活を送っていただけでない。地上は一時と心得、天国を最終目的地としていた(9、13~16節)。イザヤは隆盛を極めるアッスリヤ帝国の勢力下にあって、「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)と、歴史を貫く神の言葉の強靭な活動を保証した。豊かないのちで私たちを満たす神の言葉キリストに信頼して歩もう(ヨハネ10:10)。

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2016/07/28

7月24日メッセージ「サマリヤであかしされた主の計画」

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
ヨハネ4:23(1〜42)

 弟子たちは、イエス様があえてサマリヤを通られ、人目を避ける女性にあえて話しかけられた事の意味を、その時は理解できませんでした。しかし、後になってこの働きが、神の確かな御計画の内にあったことを知り、ここにあかししています。神様のご計画と導きが、自分にとっても間違いないことを確信しましょう。

<第一に、主の御計画と導きは確かです(3節)> 

ユダヤ人と不和であったサマリヤ人の地は、「通って行かなければならなかった」のです。それは、やがて福音が、エルサレムから始まってユダヤとサマリヤの全土に伝えられる主の御計画のために、今この時、イエス様ご自身によってサマリヤに福音の種を蒔いておくべき時でした。昼間に井戸に水を汲みに来たサマリヤ人の女性に主は語りかけ、それが伝道の端緒になったのです。身持ちが悪く、信仰とは関わりないと見えた女性が、主を知り、主に用いられるために選ばれていました。同様に私たちも、主の導きを求めて祈る時、予想を越える不思議な導きの中で、主のご計画の確かさを知ることができます。

<第二に、新しい礼拝が始まる時が来ました(23節)>
 

イエス様は彼女に、「この水を飲む者はだれでも、また渇きます」「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません・・・」(13〜14)と告げます。興味を持った彼女に、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言う中で、彼女の喝いている状況を明らかにされました。彼女は何度も今度こそはと努力しましたが、なお満足できないでいました。私たちも同じです。人の努力は一時的な喜びしかもたらさず、やがて挫折し一層の渇きとなってしまいます。真の必要は、神にしか、神を礼拝することによってしか得られず、しかも「霊とまことにをもって献げる礼拝」である必要があります。きよい生きた霊、神に喜ばれる真実を、罪に支配された人間がどうして献げることができましょうか。しかし世界中のどこでもこの生きた礼拝がささげられる時が来ようとしていると主は宣言されました(23〜24節)。これこそが、すべての人の必要を満たす礼拝です。

<第三に、約束の救い主が目の前に来られました(26節)> 

「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています」との期待に、イエス様は「あなたと話しているこのわたしがそれです」と答えました。彼女は心打たれ、この重大な喜ばしい知らせを急いで町の人たちに伝えます。「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか」。彼女のあかしを通して大勢の人がイエス様を信じ(39〜42)、さらに多くのサマリヤ人が、自分でイエス様に会って信じます。やがてイエス様は、聖書の預言の通りに十字架にかかり、三日目によみがえられます(イザヤ53:10〜11)。こうして罪の赦しと永遠のいのちが、この方を信じる信仰を通して与えられました。尽きない祝福が、キリストによって築かれた教会の礼拝を通してもたらされています。

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2016/07/17

7月17日メッセージ「信じる者を救うために来られた御子」

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
ヨハネ3:17(16〜36)

 ヨハネ伝の特徴は、神であるキリストを中心に示すこと。他の福音書が記していない出来事に焦点を当てていること。そして、キリストのお働きと周囲の反応を記すだけでなく、後に明らかになったその意味を説き明かして、私たちがイエス・キリストをよく知って信じるように導いていることです。キリストが、どんな資格と権威をもっておられる御子であるか、共に確かめましょう。

《御子キリストは、神の愛の証拠です(16節)》 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。この節は、聖書全体の中心聖句です。神はご自身のひとり子を、罪に支配されている私たちに与えられました。神ご自身を知らせるために、御子を人の姿にして地上に送り、御子は、神をあかしすると当時に、私たちを愛して仕えて下さいました。そして聖書の預言の通りに、私たちを罪から救うため十字架で死に復活して、罪の赦しと永遠のいのちを与えられました。御子を信じる者は罪に定められることがなく、御子を信じる者は、神のいのちにあずかり、主と共に永遠に生きます(ロマ8:11)。

《御子は、世が救われるために遣わされました(17節)》

 御子は、さばくためではなく救うために来られました。姦淫の現場で捕えられた女性を赦された通りです(8章)。御子は全世界と罪をさばく権威を持っておられます。御子は、神であられ、父なる神からさばきを委ねられました。さらに、きよいご自身のいのちを人類の身代わりに犠牲にされたゆえに、信じる者の罪を赦すことができるのです。「御子を信じる者はさばかれない。御子を信じない者は、すでにさばかれている」(18節)。すべての人は、自分たちを造り生かし、すべての必要を満たしておられる神に逆らい、自分を中心に生きています。罪から救って下さる唯一の道を拒んだら、罪に留まり、罪の報いを受けるのは必然の結果なのです。そのさばきは、光である御子を拒むか受け入れるかによってはっきりします。

《御子は、十字架のあかしをもって、救いに導いて下さいます(21節)》 

神(上)から来られた御子と、地から出る者は、絶対的に隔っています。救い主が天上の事を話しても、だれも理解できず、受け入れませんでした。罪の問題の深刻さは、罪の故に救い主が絶対に必要なのに、罪のために救い主のことばを理解できず、救い主のもとに行くことができないことです。だれも受け入れなかったと前に記されているのに(22節)、ここでは(33節)「受け入れた者は」と告げています。どうしてでしょうか。それは、御子が十字架によって万物と和解して下さり、十字架によって神の赦しと愛をあかしされ、十字架によって神が罪人を愛しておられることを、私たちが知ったからです。聖書は私たちに改めて宣言し、信じて救われるように招いています。「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる」(36節)

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2016/07/10

7月10日「悪魔の誘惑に陥らせず        主の祈り(7)」

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。        
マタイ6:13

《誘惑と試練の中に生きる》

主イエスは、私たちに必要な祈りとし、日常の必要な糧、神また隣人との関係を生かす赦し、そして誘惑からの守りを教えてくださった。「試み」は誘惑をも意味する。日常出会うすべてが、私たちの受け取り方次第で誘惑にも試練にもなる。人は常に選択を迫られ、その折々の自由な決断によって生きる。神の導きに従って選ぶなら、それは試練となりその人の信仰を育む。しかし、世間体や損得などの世的な基準によっての選択ならば、悪魔の誘惑に陥ったこととなる。大事なことは、すべてを神から試練と受け止め、神の導きと助けを祈って対処しようとするなら、問題は私たちの霊的成長を促すものとなる(ヤコブ1:12~13、Ⅰコリント15:58)。試みは、神に御旨に従おうとしているのか、悪魔の偽りに隷属しているのか、私たちの本性を露わにする。洪水にあった家が、砂の上であったか岩の上だったかを示すようにである(マタイ7:24~27)。

《誘惑は私一人の戦いではない》

「会わる」とは、「引っ張って行く」の意だが、人は困難に遭遇すると「自分ひとりだけ苦しんでいる」かのような境地に陥る。だが、主イエスを襲った誘惑は「御霊に導かれて」(マタイ4:1)、ヨブの苦悩も神の許可の上でのこと(ヨブ2:6)、弟子たちが主の十字架の死という衝撃的な事態に戸惑うことも神の許しがあってのことだ(ルカ22:31)。悪魔との戦いは、私たちだけの戦いではない。孤立感から自己憐憫に陥ってはならない。困難も、私たちを愛し弱さを承知しておられる神の許しの中でのことだ(Ⅰコリント10:13)。「主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命記31:6)との約束を信じていよう。

《誘惑との戦いの武器は神の言葉》

悪魔は偽る特性があり、人にこの世の力や栄光の大きさを信じ込ませ、神の存在と働きを小さく見せる。苦悩が大きい時には、神の力を小さく見せ、神も助けることができないと思わせる。また、富や力が大きければ、神なしでも十分にやって行けると思い込ませる。このような誤った考えを崩すのは、神のことば、聖書だ。状況がどうあろうと、聖書のことばは変わらず、私たちを誤謬から解放し、信仰的立場を保証し、立つべき真実の立場を提供して励ます。荒野の誘惑で、主イエスは、「・・・と書いてある」(マタイ4:4、7、10)と聖書の言葉を示して悪魔の惑わしを拒絶なさった。聖書の言葉には、悪魔をも退かせる力がある(ヘブル4:12)。
《誘惑に対抗する戦術の祈り》私たちは間違いやすく、無力で愚かだ。自力で誘惑に対抗することは不可能だ。だからこそ、主イエスはこの祈りを教えてくださった(マルコ14:38)。知恵と助けを求めて祈るが、それは神が戦ってくださることを願ってのことで、自分が全面的に従う前提での祈りだ。己の弱さを自覚し、神こそが決定的な救済者だと信じることによって、真剣な祈りが始められる。私たちの弱さを承知の主が、すでに祈っておられるのだから(ルカ22:32)。

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2016/07/03

7月3日メッセージ「負い目の許しを祈る        主の祈り(6)」

私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。                     
マタイ6:12

《私たちは負債ある身》

日ごとの糧を求めて祈り、必要な衣食住が与えられたら、私たちは何を次に祈るか。事業の成功、健康、周囲からの良い評価などか。ところがイエスは、罪の赦しを祈れと教えられた。肉体のための食物も必要で大事だが、それ以上に、自分の罪の赦しを願う、それが人間の生活の基盤だと言われる。神によって創られた人間が、神が期待しておられるような生き方をせず、不義理を重ねたことを、負い目、負債と呼ばれている。神の戒めに違反していなくとも、なすべきことをせずにいることも含む。ひどい言葉や心無い拒絶で人を傷つけるだけでなく、誰からも構われず、支援を必要とし、絶望している人に、言葉もかけず、関心も持たず、何もせず(25:42~46)、強盗に襲われて傷ついた旅人のそばを素知らぬ顔で通り過ぎた祭司レビ人(ルカ10:31、32)のように、自己保身や無関心の罪を重ねて来なかったか。それは神の律法の重大な違反で(22:39)、人は皆、罪人、負債を持つ身だと言わざるを得ない(ロマ3:23)。

《赦し合う必要》

しかし、自分が許される必要のある罪人だと自覚する人は少ない。「私は正しい、間違っていない」と主張し、自分の罪を認めない。正義感を振り回して他人の悪口を言い、周囲と争い、戦争も始める。私たちは、主イエスのたとえの中の取税人のように己の罪深さに気付いて胸を打ちたたき、神の憐れみを請い、許しを求める者でありたい(ルカ18:13)。罪は負債と呼ばれ、返さなければならない借金のようなものだと言う。パリサイ人は神礼拝を大切に守り、聖書を熱心に学び、慈善事業にも協力したが、「赦し」はなかった。赦しのない世界は、互いに目を光らせ合い、すきを窺っているようなもので、いわばこの世の地獄とも言える。主イエスは、私たちがそんな赦しのない世界に陥らないようにと、この「私たちの負いめをお赦しください。」との祈りを教えてくださった。「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに許し合いなさい。」(エペソ4:32)。互いが赦し合うことが生きることだ。

《赦せる根拠》 

憎しみは人を腐らせ、赦しは人を生かす。だが許すことは容易ではない。イエスは、私たちが赦し合うために、自分たちが神に莫大な負債を許されている存在であることを教えようと、1万タラント(6千億円)の負債を許された男のたとえを話された(マタイ18:21以下)。主人に負債を返すには、家屋敷はもちろん家族全員を奴隷に売っても金の工面が出来ない男を、主人は可愛そうに思って許して上げた。ところが、無罪放免となった彼は、百万円を貸していた知人に出会い、その金を返せと迫り、哀願する相手の声に耳を貸さず、訴え出て牢にぶち込んだと言う。彼は、自分が6千億円もの膨大な負債を許されている者であることを忘れていたからだ。私たちは御子の犠牲によって許されている(ルカ23:34)。この十字架の愛に赦されて、赦す者となれるように祈ろう。

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