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2011/01/18

1月16日メッセージ「キリスト中心に生きる」 ピリピ講解2

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。                  ピリピ書1章12~26節(21)

《我が身に起こったこと》

パウロのユダヤ同胞への思い深く(ロマ9:1、2)、彼らの救いのため、懸命に努力したが、結果は彼らの反発と憎しみを買い、長期の拘束と裁判を受ける身となった(使徒23:12~14、25:3)。この牢の苦しみや判決を待つ不安な立場を、パウロはただ「私の身に起こったこと」と記すだけで、泣き言や愚痴をくどくどと並べ立てはしない。キリストが共におられ、神の保護の手にあるのだから、不要な不幸が襲うはずがない。苦悩があるのは、私に必要かどうかを考慮した上で、神があえてそれを私に許されたのだ。だとしたら、それを不要と排除すべきでもなく、早急に取り去られるように願うべきものでもない。私に必要と神が予定された期間、困難に耐えられるように神の守りがある。然るべき時にその重荷を取り除かれる(ヤコブ1:2~4)。逆境の中で信仰が強められ、絶望の底に希望の光を輝かせ、問題を解決の鍵とされる。神の強さは人の弱さに現れる(Ⅱコリント12:9)。

《勝利の前進》

パウロは、牢に繋がれるわが身の不幸や苦悩を語るよりも、獄中にあることが福音を前進させることになったことを喜ぶ(12)。彼の入牢が警護の近衛兵たちに福音を伝える機会となり、多くの信徒に確信と勇気を与え福音を大胆に語るように立ち上がらせた(13、14)。ロマでの宣教、それが夢であり使命としていたパウロは、その地での福音前進に役立ったか否かが事の善し悪しの規準であった。己の安全や損得に汲々することではなく、キリストの素晴らしさが顕されることが大事で、福音が伝わることに関心があった。そのような姿勢にキリストも共にあって働き、神は苦難を益に変える(ロマ8:28)。キリストとその言葉は決して獄につながれることはなく、常に活動を続け前進するものだ(Ⅱテモテ2:9)。

《生きるはキリスト》

確かにパウロの周囲の人々の宣教の動機は、善意からだけではなかった。妬みや競争心、またパウロ投獄の機会に自分たちの勢力拡大をという党派心から出たものもあった(15~17)。人は自分の敵味方を知ると、一方を喜び他方を排除しようとする。結果は闘争の拡大だ。しかしパウロは、キリストのからだ(教会)の分裂を極力警戒し、キリストの十字架が空しくならないように配慮する(Ⅰコリント1:10~17)。彼の関心はキリスト、キリストが最重要事であった。自分が重要事になると自己主張が優先し分裂を生む。教会の中の争いはいつも正しい主張から始るので始末に悪い。自分に死にキリスト中心に生きることが肝心だ(20、21、ガラテヤ2:20)。

《不安の中の確かな展望》

パウロは判決を受ける身であった。自分に正義があると確信していても、世にあって必ず正しい判決が下るわけではないことは承知している。最悪の場合、主イエスのように死罪となる場合も予想される。だがパウロは、福音のため、ピリピ教会の信仰の進歩と喜びのため、なお生きて働くる道が開かれ、教会のために仕えることを確信する(25、26)。究極はキリストと共に生きること、天であろうと地であろうと、仕えるところは違っても、やがてはキリストのもとに召される(Ⅱコリント5:1~9)。

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