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2011/01/02

1月2日メッセージ「キリストと同じ思いをもって」

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。                    ピリピ書2章6~8節

私たちの教会は、
1)神への礼拝を生活の中心に据え、
2)霊的成長を目指した教育を熱心に行い、
3)物事のすべてを祈りと信仰をもって進め、
4)神の家族として互いに仕え合い、
5)福音宣教に力を注ぐ。
今年は、4)の「神の家族として互いに仕え合う」ことを目標としたい。「キリストが・・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり」を年間標語とし、へりくだって人に仕える教会になりたい。その心を今朝は冒頭の聖句から学ぼう。

《へりくだって》

心を合わせて協力し助け合う、教会の一致はキリストにあって同じ心(思い・常に心に掛けること・志向)になることにある(2)。ではキリストの志向とは何か。私たちのところに人となってお出でになり、十字架の死をも引き受け、私たちを救おうとされたことだ。兄弟に仕える人になるに必要なことは謙遜である。「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(3)。一致を阻害するのは自己中心と虚栄で、共に、他人に対し自分の優越を主張する生き方を指す。自己中心は自分に益になることだけを求める心、虚栄は自分自身を重要視し周囲に特別の者だと認められることを求める生き方を言う。そこには神の助けを真底から必要としていない、自分に絶望していない「私」がある。これに対して聖書は、謙遜という新しい生き方、相手を自分よりも優れた者とし、相手に仕える生き方を指し示す(4)。「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりも勝っていると思いなさい。」(ロマ12:10)。聖書はここで、実質的に他人を優れた者と見なせと命じているのではない。自分より才能が無く弱くとも、尊敬の念をもって自分自身より重んじることだ。

《ご自分を無にして》

この謙遜は、主キリストの生き方に見られる(5)。それは「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無に自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われた」(6~8)。主イエスは、ご自分の当然の権利・力・栄光栄誉を享受し、それにしがみつこうとするようなことはなさらなかった。サタンは神と等しくありたいと羨望し、アダムとエバを「神のようになれる」とそそのかした。だが今、私たちはサタンの性向から清められ、イエスの思いの中に招かれている。それが「己を無にする」心である。自分の才能、立場、権利を、私たちは自分の力で獲得したとは考えない。それらは神からの賜物であり、隣人の益になるように提供するためのものと見なす。「無にする」とは放棄を意味する(Ⅱコリント8:9参照)。兄弟の益となるために、自分の権利や栄誉を保持し続けようとはせず、それらを放棄し、仕える者(奴隷)にも、必要なら死も覚悟して仕えることを、私たちは教会の主に見る。私たちは、主イエスに倣って生きるように生かされている(マタイ20:28)。

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