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2011/02/08

2月6日メッセージ「神と等しくあろうと固執せず    ピリピ講解5」

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。        ピリピ書2章6~7節(3~11)

私たちの心構えはキリストのそれと同じであるべきだ。キリストは私たちのモデルである。彼には私たちが倣うべき以下の特徴が見られる。

《他の人のことを顧みる》

人みな周囲の目が気になり、評価が気になる。自分の立場や言動、意見等が否定されることに我慢できない。だが私たちの主イエスは、栄光に満ちた完全な神であるのに、その立場に固執されなかった。必要ならば、私たちのために天来の特権のすべてを放棄し、いかなる代価も喜んで支払おうとなさった。被造物に過ぎないサタンやアダムは自分のことしか考えず神のようになろうとして堕落した(イザヤ14:12~15)。だが、創造主のイエスは人となることを厭わなかった。私たちはアダムらの愚かな轍を踏まず、イエスに倣い謙遜に隣人に仕え、その益となるように労する(ロマ12:10、15:1~2、ガラテヤ6:2、Ⅰテサロニケ5:11)。

《他の人に仕える》

主イエスは、他の人を顧み考えるだけに留まらない。神の立場に固執せず、私たちの救いのために人となり、しもべとなって仕えた。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです」(マタイ20:28)。イエスは罵声の中で死ぬことも辞さず、栄光から恥辱、主人からしもべ、生から死への道を辿られた。主は「ご自分を無にして仕える者の姿をとり(僕の身分になり)」(7)、卑しい奴隷の立場に身を置いて、弟子たちの足をも洗われた(ヨハネ13:4~5)。

《犠牲を払う》

犠牲を払わずに済むなら人は喜んで人に仕えるが、犠牲を求められるなら仕えようとはしない。だが犠牲を伴わない奉仕は、奉仕に値しない。神の祝福があるとすれば必ずその働きには何らかの出血が伴っている。主イエスはご自分の立場に固執せず、死の犠牲も辞さない。従順な人は主に倣い、犠牲を避けず、喜んで神の栄光、人の益のために労する。「たとい私が・・・注ぎの供え物になっても、私は喜びます」とパウロは覚悟を語り、エパフロデトも「いのちの危険を冒し」た(17、30)。私たちは、私たちを富ませるために貧しくなられた方を信じて、貧しくなるほどに豊かに蒔き、やがての豊かな刈り入れに期待する(Ⅱコリント8:1~9、9:6)。

《神に栄光を帰す》

私たちは、自分の利益を求め評判を気にし兄弟たちと競う。このような「自己中心や虚栄」の動機から、神の栄光と隣人の益を目標として行動する者に変わろう。主イエスは神のみ旨を第一とし、徹底してそのご意思に従われた。それで彼はすべてに勝る「主」という名を与えられた。神への従順さは、神に栄光を帰し、隣人への奉仕となる(ヨハネ17:1~5、エペソ1:12)。イエスは謙卑により「インマヌエル(神我らと共に)」、復活と天への凱旋の高挙によって「主」という名を、神より賜った。
従順な人は、他者のために生き、犠牲の奉仕を通してキリストの苦しみに与かり(3:10)、最後に神に栄光を帰し、栄誉に与かる(Ⅰペテロ5:6)。

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