« 2月27日ニュース | トップページ | 3月6日ニュース »

2011/03/08

3月6日メッセージ「仲間と教会への心遣い」

しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。            ピリピ書3章7~8節(1~11)

《状況にではなくキリストに》 

著者パウロは幽閉されて裁判を待つ身、宛先のピリピ教会は迫害下にあって貧しかった。だが書簡の筆は明るい。短い書簡中に「喜び」の語が17回も登場、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい・・・あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください」(2:18、4:14)と、喜べの勧めを繰り返す(1:18、2:17)。
「主にあって喜べ」と命じるが、何を喜ぶのかは語らない。クリスチャンの喜びは状況に左右されない。人は「主にあって」義とされ、神の祝福の中に生かされる。神は「私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる」方で(Ⅰテモテ6:17)、キリストも「わたしの喜びがあなたがた(弟子たち)の内にあり、あなたがたの喜びが満たさ」そうと労された(ヨハネ15:11、17:13)。だから「主にある」者は万事が益、常に最善の環境下にある。クリスチャンは喜びの中に生かされている(ロマ8:28~39)。

《獲得ではなく与えられ》 

私たちは、神と人との前で何らかの功績をあげなければならない、またそうすることが出来し、そうしている、という確信が心に深く根差している。だから、苦境を脱し良い目を見るには努力や善行が必要だ、「天は自ら助くる者を助く」と思う。だが人の努力で神の要求は満たせない。己の利己的な傾向や罪深さで、人は「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)と絶望の呻きを漏らさざるを得ない。だが多くは「俺も百点とは言えないが、結構イイ線行っている」と思い込み、「人間的なもの頼む」(4)傾向がある。
「ただキリストを信じるだけ救われる」という恵みは理解され難い。神の救いは信仰のみによる。信仰プラス努力善行は神の恩寵を無効にする(ガラテヤ2:16、エペソ2:8)。容易に湧いてくる律法主義傾向を警戒しよう。

《得にではなく損になり》 

パウロは、人がもし経歴や実績出身によって義しとされるのであれば、自分は誰にも負けないものあると、神の選ばれた生粋のユダヤ人、律法を誰よりも熟知しその実践に命懸けで取り組んだ立場、その主義主張を守ろうと教会をも迫害した経歴、等を述べる。律法主義者たちが垂涎の眼で見るそれらを、パウロは「それらいっさいは損、キリストにあってはチリ芥」だと断言する(7、8)。キリスト信仰に邁進するには、不要どころか見苦しい汚物だと評する。信仰は価値観が一変する。キリストにあって新しくされた私たちは、今や万物を創造し支配しておられる神を知り、神の子とされて生きている。神のみこころを通して周りを見、御旨に沿って働くことを喜び立場にいる。新たな価値観に生きよう(ロマ12:2)

|

« 2月27日ニュース | トップページ | 3月6日ニュース »

礼拝説教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/543924/51064559

この記事へのトラックバック一覧です: 3月6日メッセージ「仲間と教会への心遣い」:

« 2月27日ニュース | トップページ | 3月6日ニュース »