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2011/04/19

4月17日メッセージ「棕櫚の日曜日に」

シオンの娘に伝えなさい。「見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。」 マタイ福音書21:5(1~11)

《計画通りに》

主イエスはエルサレムに向かう。「多くの苦しみを受け、殺され、よみがえって」救いを成就するために他ならない(16:21)。子ろばの調達を命じたのも、預言の通りに「ろばの背に乗った平和の王」が到来したことを、人々に宣言するためだった(5、ゼカリヤ9:9、10)。弟子たちはイエスの言われた通りのろばの子を見つけ、命じられたとおりに「主がお入用なのです」と言って連れて来た(3、6)。主イエスは、惜しみなく与えまた豊かに持っておられる方だが、時には私たちのものをその聖なるご用のためにお用い下さる。キリスト教を、信徒各自の幸福追求の手段だと勘違いしてはならない。「私の要望、私の願い」に勝って、「主の入用、神の必要、教会の要望」が、はばかりなく語られ、応えようとする人は幸いだ(ガラテヤ2:20、ロマ14:7~8)。福音のために払う犠牲は、豊かに報いられる(16:25、Ⅱコリント9:6~8)。すべてはイエスの言われた通りに、そして聖書の予言のとおりに、神の計画は進行して行く。

《王であるのに》

エルサレム住民の多くが、イエスの数々の奇跡と教えに驚嘆していたので、「ダビデの子にホサナ、旧約に約束されていたメシヤよ、今救いたまえ」と叫び、歓迎の印として上着を脱いで王の通り道に敷いた(Ⅱ列王9:13参照)。しかしこの世の王たちと異なる「荷物を運ぶろばの子に乗って」に象徴される「平和の王」を人々は理解できない。祭司長たちやピラトら、時の権力者に引き回され、侮辱されて犯罪者のひとりとして十字架に追いやられたイエスが、私たち民の一切の罪を背負って戦い、勝利を得ようとしておられたとは、誰も思いもしなかった。王らしい力と栄光と権力のかけらも見えない哀れなイエスを、王メシヤだとは誰ひとり信じられなかった(Ⅰコリント1:18)。だが、私たちの王は、ひとり苦悩に耐え、民衆の罵声の中でも十字架から降りようとなさらず、私たちの真の王として救いを勝ち取ってくださった(イザヤ53:3~6、10、11)。私たちの王は、民の足を洗う王である。

《歓呼の民は》

歓呼の声を挙げたエルサレムの人々も、数日後には「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから」と悪態をつき、御子を排除した(27:42)。ろばの子の不思議でイエスの力を経験したはずのふたりも、他の弟子たちと一緒にイエスから離れて行った。上着を敷いてイエスを迎えた人々が、今は「頭を振りながらイエスをののしって・・・」とある(27:39~40)。人の心の軽薄さに呆れるが、それは他人事ではなく、私たちも状況次第で心変わりする。しかし、そんな私たちの愚かさや、将来の裏切りを承知の上で、主イエスは十字架に留まり、私たちの救いを成就してくださった(ルカ23:34、ヘブル10:5~11)。

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