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2012/01/24

1月22日メッセージ「収穫は多いが、働き手が少ない」

また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」 マタイ9:36~38(35~38)

《すべての町や村を巡って》

主イエスは、「すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(35)。その活動を、いつも続けておられた(4:23)。そして汚れた霊を制し追い出し、病をいやす活動を続けるようにと、弟子たちに、つまり教会に命じておられる(10:1、7~8)。では私たちが、あるいは私たちの教会が主イエスがなさっていたような活動を続けているかどうかが問われている。では「盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り」(11:5)という事実を見た者は、みな信じたのだろうか。否。パリサイ人や律法学者など、当時の宗教的指導者たちは、自分たちの伝統的な信仰生活を否定されると考えて腹を立て、イエスを憎み、悪霊の働きのせいだと言いがかりをつけている。癒されても感謝せず聞いても信じないのであった(13:14~15、ルカ17:18)。

《かわいそうに思われた》

以上のような、頑なで不信仰な人々が、主イエスのご覧になった群衆であった。「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」とあるが、当人たちの多くは問題もなく順調に行っていると思い込んでいる。私たちが一生懸命に愛を注ぎ、親切に語りかけ、理解してもらおうと忍耐し犠牲を払っても受け付けない。ばかばかしいと投げ出したくなる相手である。そのような民を、主イエスは「かわいそうに思われた」(詩篇103:8~12)。それは「内臓が引きちぎられるような思い」を意味する。愚かな人々だが、主はその愚かさをバカにして遠ざけず、そんな愚かな反応しかできない人々のみじめさに、そしてその将来の神の審判の恐ろしさに、イエスは深く同情し心が切り刻まれるような思いをなさっている。人々の罵り、誤解、愚かさに対して深く同情され、ご自分の肉体を裂いてしまわれるほどの愛を抱いて、イエスは行動なさった(Ⅰヨハネ4:9)。

《収穫は多い》

主の宣教活動は、ことごとく拒絶と批判と罵りに終わった。信じた者は少ない。ところがイエスは「収穫は多い」と言われた。確かに実りをもたらすのは人の知恵や努力ではなく、収穫の主である。確かに日本の宣教は不毛不作に思える。だが真の羊飼いのいない多くの迷える羊がいる。主は彼らを深く憐れんでおられる。福音に何の関心も持たず、キリスト者の証を小ばかにし、伝道に敵意で対抗したとしても、その彼らを主イエスはかわいそうに思い、ご自分のもとに刈り入れ集めようと願っておられる(哀歌3:22、エレミヤ31:20)。そしてそのあわれみの主は、収穫のために働く人を、神に祈り求めるようにと私たちに勧める。実りが少ないと嘆いている時、多くの収穫を祈れとも言われていない。少ないのは主が委ねてくださる魂に関わる働き人の数であり、働き手を送って下さるように収穫の主、神に祈ることが私たちの責務だ。その祈りの中で、収穫の主が私たちを遣わされるなら、喜んで収穫の主に自分を用いていただこう(イザヤ6:8)。

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