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2012/01/31

1月29日メッセージ「受けるよりも与える者に」

あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いて来ました。このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」        使徒の働き20:34、35

 谷井伝道師はこの春過ぎに母教会の山梨ハレルヤ教会に戻られる。船橋教会の都合や願いから考えれば、極めて残念なことだ。しかし、これが主のみ旨なら、この事態を前向きに理解しよう。私たちは伝道師を得て7年間、母教会が送って下さった恵みを享受してきた。そして今、伝道師を家族と共に送り出すという恵みを経験しようとしている。伝道師一家は消えて行くのではない。新たな働きを求められて出て行かれるのだ。上記の聖句から以下のことを学ぶ。

《受ける者から》 

私たちは「受ける、もらう、増やす」ことを求める。必要の満たしを求めることは悪いことではない。主も、「求めよ。そうすれば与えられる」と言われた。でも、私たちは足ることを忘れ、蛭のようにもらうことだけを求める。「蛭にはふたりの娘がいて、『くれろ、くれろ。』と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、『もう十分だ。』と言わない。」(箴言30:15)。私たちは、満杯の部屋にさらにあれこれと詰め込んで不自由極まりない暮らしをしているようなものだ。今必要なことは欠けの満たしではなく、有るものを手放す「断捨離」だ。「すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」(出エジプト20:17)のだが、それが出来ない。なおももらおうと思うむさぼりの罪の故だ。パウロのように、聖霊の助けで、「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学び」、欲しがる生活から脱出しよう(ピリピ4:11、Ⅰテモテ6:6)。

《与える者に》 

欠けの満たしを求めてイエスの元に来た金持ちの青年に、すべてを売り払って貧しい者に施し、無一文になって従うようにと、イエスはお勧めになった(マルコ10:21)。主ご自身が、「与えるほうが幸い」だと保障なさった。手放すことを恐れてはならない。万物の所有者主イエスが共におられるので、パウロと一緒に「何も持たないようでで、すべてのものを持っています。」と言える立場にある(Ⅱコリント6:10)。私たちが手に持っているものは貧しくわずかだ。でもたった5つのパンと2匹の魚だけだったが、それらを差し出すと、主イエスはそれらを祝福なさり、男だけで5千人もの人々を満腹させ、余りが出るほどに豊かな食事にしてくださった(14:19、20)。私たちも「より幸いな、与えること、ささげること」を積極的に実践しよう。

《持っているものを》 

「もし熱意があるならば、持たない物によってではなく、持っている程度に応じて、それは受納されるのです。」とある(Ⅱコリント8:12)。私たちは無いものではなく、今持っているものを、神に「主がご入り用なら」と差し出し(21:3)、祝福を受けて用いてもらおう。私たちの教会は人材も経済も少なからず与えられている。「主がご入用なら」どんなものであれ、明け渡す教会でありたい。貧しい婦人のレプタ二枚(百円程?)の献金をお喜びになった主は、私たちの持ち物を最良に生かして用いる方である。時には時間、時には才能、時には私たちの人生丸ごとを、お求めになる。何を求められようと、私たちは「主よ、お用い下さい」と、それをそのまま喜んで差し出したいものだ(マルコ8:35)。

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