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2012/01/04

1月1日メッセージ「黙って、ただ神を待ち望む」

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。 詩篇62:1、2(1~12)

《沈黙して神を待つ》

この詩篇は「アク:ただ、こそ、まことに」を、6回使用し、頼みとすべきは「ただ神のみ」であることを確信している。そして、その神を沈黙して待つべきことを強調している。「黙って」とは、先ずつぶやかないことだ。神が万事を支配なさっていることを信じていながら、自分に不都合なことが生じると、容易に不平不満を口にする。病苦、貧困、不遇、嘲笑、不当な扱いなど、それぞれに神の深い御旨があり、その上で私たちに課せられている試練である。だが、そのみ心を尋ねもせずに、すぐに不平をまき散らし、愚痴をこぼす。「黙って」の第二の意味は、悪あがきをしないことだ。苦境に陥ると、一刻も早くそこから抜け出そうと、クリスチャンにあるまじき見苦しい態度を暴露してはならない。不安と焦燥と恐れの最中にあっても、軽率に口を開き、いたずらに手足を動かさない。
では何をするのか。先ず、ただ、神の前に出る。そして沈黙して御旨をおそれつつ思い巡らし、祈り求めることである。エルサレムがアッスリヤの大軍に包囲された時、預言者イザヤは「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ30:15)と、市民を励ました。信仰とは、人の力や知恵で問題解決を求めることを第一とはしない。緊迫した状況下で、人の心は不安と焦燥に駆られる。だがそのさなかにあって神だけを頼みとして、それ以外のものに解決を求めないことだ。それは、神の約束を信じて沈黙して待つ姿勢を、信仰者に与える。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません。」(イザヤ7:4)。

《沈黙できる理由は》

この詩篇の作者は、なぜ危機のさなかにあっても、沈黙して待つ忍耐をどこから得ているのか。理由は「私の救いは神から来る」(1)と確信しているからだ。この揺るぎのない信頼の姿勢は、救いが自分自身のうちにはなく、地上のどこからも得られないが、主なる神から必ず与えられると確信出るところに由来する。救いを神以外のものに求めることを、聖書は偶像崇拝と呼んで、それを拒絶している。人の知恵、力、立場、財、学問などを神のように尊び頼ってはならない。それらは皆、神が恵みとして人に賜ったものであって、神ではない。それらに信頼を置き、それらに希望を託すなら、いつかは失望落胆に終わる。
自分のうちにも他人にも望がなくとも、罪と死に打ち勝たれたキリストに、私たちの希望がある(Ⅰペテロ1:21)。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である」と詩人は励ましている(8)。イザヤも告げる、「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。」と(46:13)。

《沈黙の中身は》

この沈黙は、心中に相手への怒りや抗弁の言葉を溜めながらの沈黙でもなく、しゃべり疲れたり、うまい言葉が出て来ないための沈黙でもない。人の力や知恵に絶望し、私に希望と力を与えてくれるのは神の言葉だけであることを信じ、忍耐して待ち続ける、神信頼の沈黙である。「望みえない時に望みを抱いて信じました」と賞されている、あのアブラハムのように、静かに神への希望を信頼して待つ姿勢を身に着けたいものだ(ロマ4:18)。

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