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2012/04/17

4月15日メッセージ「復活、それは信じがたいこと」

それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか。」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。                 ルカ福音書24:41~43(13~49)

《復活が信じられないのは》

今日の聖書箇所に登場するエマオ村に向かう二人の弟子、エルサレムの部屋に息をひそめている11人の弟子、そのどちらもが復活の主イエスを目にしながら、容易には信じられずにいる。彼らは復活のイエスを見た婦人たちの証言をすでに聞いている。墓が空になっているのも確認した。そして今、彼らのそばにイエスがおられる。だが二人とも「目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」(16)し、11弟子たちも彼らの真ん中に立たれたイエスご自身を目にしながら、「霊を見ているのだと思った」(37)り、「まだ信じられず、不思議がっている」(41)有様であった。キリスト復活の証人たちは、現実的な判断の出来る常識人であって、迷信深く容易に惑わされやすい人々ではなかった。確かに主イエスは、彼らを「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」と嘆かれたが(28)、それは私たちにも当てはまることで、彼らを他人事のように不信仰とは簡単に断じるべきではない。復活を信じられるのは、主イエスが自らを「シモンにお姿を現された」(34)とあるように、ご自分をイエスが相手に分かるようにお示しになる時だけで(Ⅰコリント12:3、2:14)、人は神のお働きや復活の事実を目撃しても、なお信じられないものである。

《イエスの解説を通して》

しかし、私たちの主はこの愚かな弟子たちを見捨てて置かない。暗く失意に沈んで、トボトボと故郷の村にであろうか、希望のない生活に戻ろうと、夕暮れの道を下る弟子に、主イエスは伴ってくださる。信仰者に主が共にいてくださるのは当然と思うが、不信仰な者たちに付き合ってくださる。神の祝福は、祝福への期待も失っている者に、神の側から近づいて注がれる。罪と死に沈む私たちの側には、意味もいのちも希望もない。だがその罪と死に勝利してくださった復活のイエスが近づいてくださる。弟子たちが復活のイエスを信じたのは、その姿を見たからだけではない。弟子たちに、旧約聖書全体からイエスの受難と復活を解き明かしてくださったからである(26~27、32、44~47)。イスラエルの民と共に歩んでくださった神、彼らを導き助けた方はイエスに外ならず(イザヤ63:8~9、エレミヤ31:20、ホセア11:8~9)、13:34の嘆きの通りである。嘉永節だけではない。不信仰な弟子たちの食事に付き合い、主はあの夕暮れ時の5千人の給食の場面を思い起こさせ(9:16)、十字架の釘と槍の跡を残したお身体を弟子たちに広げて見せ、復活の栄光のお身体で焼き魚を頬張って見せて、亡霊ではないことを示してくださった。福音書に数多く記されているように食事をしながら教えてくださったのである。これは天国の食卓に、やがてはつながる。

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