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2012/06/25

6月17日メッセージ「神の評価の中に生きる」

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。
ヨハネ第一の手紙4:10

 時々「何でも鑑定団」というテレビ番組を見る。「これぞ高価なお宝」と思い込んで持ち込んだものが、たったの数千円、と判定された時の持ち主の反応が面白い。評価が変われば、同じ物でも、見る目が違い、扱いが変わる。人も同じで、自分をどう評価するか、によって気持ちが異なってくる。「失敗した」と思えば後悔の念と劣等感が生じ、「まあまあだ」と思えればそう動揺することもない。自分をどう評価するかは、育った環境にも左右される。両親から愛情を受けて育った人は、いつも自分を大事な価値のある存在だと、肯定的に評価する。批判され否定されて育った人は、自分を駄目な価値のない人間だと見なす傾向がある。
 では神は、人間をどうご覧になり、評価しておられるのだろうか。先ず人間は、すべての被造物の冠として、しかも「神に似た、神の似姿をもつ存在」として創造されたと記されている(創世記1:27)。さらには「あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた・・・主があなたがたを愛されたから・・・」(申命記7:6、8)とあるように、私たち人間は神に愛されている。「永遠の愛をもって、わたし(神)はあなた(人間)を愛した」(エレミヤ31:3)。
 しかし、現実の私たち自身は「咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」(詩篇51:5)と呻かざるを得ない、罪深い者でもある。「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです」(ロマ7:15)と使徒パウロが告白しているように、善をしたいと願いながら、悪に走ってしまう存在である。その利己的で薄汚い思いから完全に解放されることはない。確かに私たちは、神の大切な、宝のようなものなのだが、その立場を汚し役目を放棄し、神に逆らって祝福を失い、みじめな状態に陥っている。「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:3)。
 しかし神は、神の怒りを受け滅びるしかない、性根の腐った私たちを、冒頭の聖句のように、ご自分の御子を犠牲にして救出してくださった。それのみか、神は私たちの味方、いや父という立場を引き受けておられる。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」(ロマ8:32)と私たちも一緒に喜ぼう。
 神は、私たちを大切な愛すべき存在だと言われる(イザヤ43:4)。イエスは、私たちを「迷い出た羊、なくした銀貨」に譬えられた(ルカ15:3~10)。神のふところという本来の居場所から転がり落ちた銀貨を見つけ出すまで捜索の手を休めず、迷う羊を憐れんで何としてでも連れ戻そうとされる。このような、神の愛の対象となっている自分を自覚するならば、低くゆがんだ自己評価から私たちは解放される。そこには、自分の罪や弱さを素直に認め、人への尊敬や愛と理解を求め、神への希望と感謝をもって踏み出す出発点が据えられている。

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