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2012/07/19

7月15日メッセージ「神からの大いなる紹介」

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。      マタイ福音書11:28~30


《疲れた人、重荷を負っている人》

神から声をかけられ招かれている人は、何か取り得のある者、見どころのある人とか、多少は善良であり、多少は清らかな人というのではない。敬虔な者、才能のある人、努力の人でもない。では「かなり疲れている、人よりも大きな重荷を負っている」という資格が必要だというのでもない。神の目には、私たち人間すべてが「疲れた人、重荷を負っている人」であり、何の取り得も見所もない者、罪の重荷の下で疲労困憊している者、もはや自分自身の力だけでは立ち上がることもできない者と映っている。だが人は、常に自分の見所、取り得を主張する。イエスのたとえに、自分を正しい人間だと自負しているパリサイ人と、己の罪深さに悩む取税人が宮に上って、パリサイ人は「自分がこの取税人のようなものでないことを感謝します」と祈り、取税人は「こんな罪人の私をあわれんでください」と胸を叩いたとある(ルカ18章)。そして私たちクリスチャンは、「あの人のように、自分の罪を自覚していない、傲慢な者でないことを感謝します。」と人を裁いてはいないだろうか。神の招きの呼びかけの言葉を、そのまま受け入れよう。「自分はまさに、何の取り得も、罪の重荷を負い、疲れ果て、滅び行く者です」と。

《わたしのところに来なさい》

主イエスの招きの言葉は単純だ。「来なさい」だけで、何か手土産を用意しなければならないというのではない。善い業や精進、あるいはそれなりのささげ物を持って行くことでもない。身なりを整えて、今の罪に汚れたむさくるしい姿ではなく、多少は信仰を深め、それなりの知識を蓄え、罪を少しは洗い流して、というのでもない。今あるそのままの自分で来なさい、主は求めておられる。招かれたのは、私の一部だけではない、「疲れたままのあなた全部を、わたし(イエス)に持って来なさい」である。「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と、パウロは「神のあわれみのゆえに」という前提で勧めを述べている(ロマ12:1)。主イエスはすでに、私たちのためにご自分のすべてをささげ尽くしてくださっている。しかも主は、私たちの傍らまで天から降りて来て下さっている(ピリピ2:6~8)。だから私たちが彼のもとに行くに、何か特別の努力を必要としない。ただ招きに応えて、「疲れ果てている私は、主イエスを信じます。お救いください。」と告白するだけで十分だ。

《わたしが休ませてあげます》

「キリストこそ私たちの平和であり」(エペソ2:14)とあるように、彼は、「隔ての壁を打ち壊し、敵意を廃棄された方」であり、私たちに神との平和をお造りくださった。キリストご自身が平和であり、平安の方である。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23:4)。死の陰を通ることもある。だが平安、憩いはそこにも提供されている。平安の主が共におられるのだから。

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