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2012/07/30

7月22日メッセージ「教会、そこは嘆きの受け止められる場所」

「神よ。私を救ってください。水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。私は大水の底に陥り奔流が私を押し流しています。私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。」     詩篇69編1~3節(参照ヨブ7章1~21節)


《苦難の現実の中で》

私たちの現実は、様々な問題に直面し、自分たちの無力さを痛感させられる。あきらめれば済む問題ではない。不安や恐れにつきまとわれ、深い悲しみと絶望感、怒りや屈辱などに脅かされている。しかも、このような悲しみや不幸としか思えない状況に直面するのは、ごく限られた人だけの、まれな経験ではない。多くの人々が、人生の中で幾度となく直面することと言うべきだろう。
聖書にも、苦難に遭遇した人々の記事が記されている。アブラハムは約束で賜った息子イサクを我が手で殺して奉げよと命じられ、その理不尽と非情さに怒りや疑念を抱かなかったのだろうか。財産どころか、10人の息子娘とその家族全部をも奪われ、妻にも去られ、残ったのは惨めな病いの我が身だけというヨブは、「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」との信仰深い言葉だけで納得したのか(ヨブ1:21)。一人息子を失ったやもめ、長血を患う女性、不治の病いに38年もの間苦しんできた男など、新約聖書にも絶望の淵に落とされた人々の記事は多い。つらさを訴え、つぶやきをこぼすことは不信仰なことなのだろうか。

《嘆きをことばに出して》

では、賛美しようにも、その気持ちになれないのは、不信仰なのか。信仰者は、神を信じていつも喜び続ける者でなければならないのか。確かに、神が私たちの味方であるなら、全能の神に解決できない事はない。だから不安や絶望感とは無縁だと言えなくもない。「いつも喜んでいなさい・・・すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16~18)の勧めも当然と思う。
しかし、聖書は、神への感謝と賛美だけがあるのではない。詩編には「嘆きの詩篇」と称される多くの詩がある。私たちは、それらの詩人のうめきに共感し、心に鬱積して言葉にならなかった深い悲しみや怒りを、先輩の信仰者たちの言葉によって、神と人とに訴えることが出来る。教会は、押し殺し忘れていた感情を、言葉にして出すことが許され場所だ。神に訴えることが出来、友も嘆きを共にし神に祈る所である。
それは、ヨブの執拗な叫びを、時には度を越しているとも思える言葉をも、神は聖書に記して留めておられ、詩人らの嘆きを私たちに教えておられるからだ(ヨブ19:11等)。私たちは、ヨブの苦悩の叫びに共感し、友人らの言い古されてきた意見にヨブと一緒に反発し、神に訴えるのである。

《神が嘆きを聞かれるので》

私たちの人生は、決して軽くはない。また人の自由に操作できるほど安易な底の浅いものではない。神のかたちに創造された人間の営みは、重く深い。人はたぶん、その深淵さや意味合いを少しずつ味わうには、今の自分の枠を破らざるを得ないのだろう。つまり自分ではどうにもならない状況下に置かれなければ、学べないことを、苦難を通して経験して行くのだろう。
苦難の中で、私たちは神に向かわざるを得ない。幸いなことに、信仰者の傍らに、主キリストがおられる。神に敵対するほどの嘆きにまで追い詰められると、不思議なことに、そこに神への信頼の道が開かれて行くことを発見する(ヨブ19:25)。そして私たちは、その神から祝福の喜びを汲むことになる。「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(イザヤ12:3)。

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