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2012/08/12

8月12日メッセージ「十字架のことば」


十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
Ⅰコリント1:18


絞首刑の、人の首を絞める、あの輪になった綱を、飾ろうとする人はいないだろう。それが執行された状況を考えるだけで陰鬱な気分になる。ましてや十字架刑は、それと比較にならない残酷な処刑法だ。人を裸にし、その手足を地面に立てた木に犬釘で留め放置しておくものだ。体重を足で支えようとすれば、足の激痛に耐えかねる。腕で支えようとすれば手が裂けるような痛みが走り、締め付けられた胸の苦しさで、また足で支えようとする。するとまた、足を耐えがたい痛みが襲う。裸を容赦なく攻撃する太陽の日差しと夜の寒さ、徐々に流れる出る血。汚物にまみれた裸身を人目にさらし、何日も苦しみ抜きながら死んで行く。これが十字架刑に対する当時の人びとの感覚であった。だが不思議なことに、キリストの十字架には陰鬱さや無残さ、敗北や苦悩の影は見当たらない。そこには、以下のような特徴がある。

《十字架は平安をもたらす》 

人が静まって考えると、誰もが二つの不安を抱えていることに気づく。一つは、かくありたいとの願いとは裏腹の、罪にまみれた歩みをする自分に気づく。「私は、したいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています」(ロマ7:19)と指摘されている通りの人間であり、「邪悪な良心」(へブル10:22)の持ち主であると。二つに、いつかそれらの罪の支払いをしなければならないのではないか、という不安である。
自分の咎と不安とを抱えている私たちに、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした」(イザヤ53:5)のだと、神は言われる。十字架こそ、罪の汚れと罪責から私たちを解放する、神からの贈物である。だから「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ」(イザヤ45:22)と預言者も告げている。

《十字架はいのちをもたらす》 

イエスの十字架は、残酷な死で終わらない。それは、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであ」(ヨハネ3:16)り、「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせない」ようにされ(Ⅱコリント5:19)、「その血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」(ヘブル9:14)と、新しいいのちに招くものだ。

《十字架は愛をもたらす》 

イエスの十字架によって、私たちは神から愛されていることを知り、また隣人への愛を与えられている。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにして」(ロマ5:8)くださったことを知り、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(Ⅱコリント5:17)ので、「愛されている者として・・・深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着け」(コロサイ3:12)る責任を自覚する
キリストの十字架は、一見すると、残酷、敗北、死であるが、神の不思議で深遠な力が秘められている。

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