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2012/08/06

8月5日メッセージ「生きた慰めの言葉を」


神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
Ⅱコリント1:4~5(3~10)


《教会は慰めを経験して語る》 

現代は情報の時代である。気の利いた言葉が飛び交い、心を捕えようと工夫されたキャッチコピーが次ぐ次と登場する。しかし、私たちは、虚しい慰めや励ましの言葉に埋まっても、その心は癒されない。一瞬心に留まる先人の名言も、しばらくして消えて行く。
だが、私たちの聖書は、神の真理の言葉だが人の言葉でもある。多くは神の約束や教えに生き、背いた人々の記録であり証しである。責任のない傍観者、あるいは上から冷淡な目線の言葉ではない。神からの、愛する者への諭し、慰めと希望を与えようとしての言葉である。いや、神ご自身が人となられて経験された上での、私たち人間としての目線からの、生きた言葉である。だから、聖書の言葉は説得力に富み、力がある。
パウロもその一例、彼は苦難を味わい、神の慰めを経験して、「自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです」と語る。人の愚か罪深さ、苦悩を深く味わい、その救出を実際に経験して、初めて証人として立てる。自分の経験した祝福を、自分の言葉で語り出そう。どのような苦しみにも勝る偉大な神を、その上で語るのである。
知識も大事であり、健全な神学理解も大切だが、キリストとの生きた交わりを欠いた信仰は、観念的で虚しい。「あの方が罪人かどうか、私は知りません。ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」ヨハネ9:25。人を慰め生かす、自分の信仰の体験を語ろう。

《教会は慰めを届ける》 

慰めや励ましを必要としない人はいない。教会が愛の共同体であり、慰めの提供できる場所であることを、私たちクリスチャンは積極的に形成する責任がある。教会の主キリストのお支えの中で十分に可能なことだ。
先ずは挨拶から始めようではないか。出来れば相手の名を読んで声をかけることから始めよう。「○○さん。おはようございます。」「▽▽さん。お加減どうですか。」などの声を、名を呼ばれてかけられることは、誰にとってもうれしいことだ。
さらに話が進んで、信頼し合って問題を打ち明け、互いの経験した神の恵みを分かち合うことで、初めて真の慰めが実現する。人は誰でも自分の語りたいものだ。すぐに出て来る自慢話は罪を含むが、悩みや悲しみを理解し共感してくれる人を誰もが求めている。自分の悲しみや恥ずかしい悩みを語るとい「自己開示」が出来ないは、人への信頼が欠けているからであり、そこには真実の人間関係は生まれず、もちろん、深い慰めを提供もできない。Ⅰテモテ1:15参照。
私のすべての罪を知り給う神を信じて許された者として、自分の恥ずかしい破れをも含めて、それを回復してくださった神の許しと愛を、教会で証し、さらには慰めを必要としている方々のところに出かけて行った、話を伺い、自分の経験を語り会話を重ねて、慰めを届ける者となろう。

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