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2012/10/15

10月14日メッセージ「良くなりたいのか」


イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
ヨハネ福音書 5章6~9節

人生は思い通りならないものだ。自分の人生は、自分で何でもやって行けるように思える場合がないわけではない。だが考えるまでもなく、子供や上役、隣人が、自分の思い通りになってくれるわけではない。いや自分自身のことさえも、自分の思うようにはならない。思うように行かない、どうしようもない事態に置かれていることを認めざるを得ない時、人は混乱や不安に陥り、自信を失い、絶望や怒り、挫折感を味わう。
冒頭の聖書箇所の主人公は、38年間も病いに苦しんできた男で、ただ「病人」と紹介されている。病気も長く続くと、病気であることが当たり前になる。治りたくないわけではないが、癒されるという希望を持ち続けることは難しい。池の水が動いた時、真っ先に飛び込むと病気が治ると信じられていた池のそばで、38年間も過ごした日々。治ることよりも、飛び込むこと、そのための手助けと方法、それが彼の第一の問題となっていた。そしてそれも自分には無理、かすかな希望もあきらめざるを得ない中にいた。しかし、その場所以外に、どこに彼の居場所があろうか。これと言った己のなすべきことも見えず、人としての尊厳も保てず、希望も失い、あきらめと悲哀また屈辱の中で、惰性の日々を過ごすしかない。
そんな彼に、ある日、決定的な転機が訪れた。「良くなりたいのか」と彼の問題に真っ向から問いかけた方が現れた。「当たり前です。癒してくれますか」と返答されても、私たちはそれに応じられない。だからそんな問いを、これまで誰からもされなかったのだろう。人に出来ることは、せいぜい水に飛び込む際の手助けぐらいだ。だからこの男も、主イエスに愚痴る、「誰か手助けしてくれれば・・・」と。人は、自分の考える解決方法以外に、別の方法があるとは思いは及ばない。
だがキリストは単純に言われる。「良くなりたいのか」、そう願うのであれば、今あなたは「起きて、床を取り上げて歩きなさい」と。病気の男は主キリストの言葉を信じた。そして38年ぶりに、1380日の長期間、彼を縛り付けていたベットを、今度は逆に頭に乗せて、自力で歩き出したという。
自分の病気がそう簡単に治るはずがない。たとえキリストが、「立て」と命じたとしても、立てるようになるはずがないではないか。そう思って、主の言葉に従わないのも、彼の選択のひとつだ。だが聖書の言葉を本気で信じて、その言葉に任せて進もうと歩み出すと、神は不思議な道を開いて、私たちを歩めるようにしてくださる。昔、神の言葉に従ったイエスラエルの民が、祭司を先頭にして、岸いっぱいにあふれて流れるヨルダン川に足を踏み入れると、水は突っ立ってせきをなしてせき止められ、乾いた川底を渡ったとある(ヨシュア3:14~17参照)。
ダメに決まっていると自分を縛り付ける思いこみから、神のことばに従って「立つ」あるいは「足を踏み入れる」という決断を下し、神の指示される道を行こう。

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