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2012/10/29

10月21日メッセージ「罪を離れて義のために生きる」


キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
Ⅰペテロ2:22~23(18~25)


《私たちの役目》 

ペテロは、「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい・・・すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい」(2:13、17)と命じている。一世紀当時の社会制度が、現代に勝って人権を配慮した公平なものであったわけではない。善を行っても不当な苦しみを受けるなら、善を行うことに何の意味があるのか。こんな不公平、横暴を、神はどうして許しておられるのか、と読者は問いたいところだろう。しかし、ペテロは、横暴に振舞う王を尊び、過酷な命を下す主人に従い、すべての人を例外無く重んじよ、と命じる。彼は、読者の置かれた社会制度や正義の問題を語らず、神が彼らに求めておられるのは、善を行なっていて苦しみを受けそれを耐え忍ぶことであり、そのために召されているのだと言う。ペテロは、そのような生き方を主イエスに見たのであった。ペテロは目に刻まれたイエスの姿を、読者にモデルとして示し励ます。

《ののしられてもののしり返さず》 

キリストには罪も偽りも落ち度も何一つない。むしろ「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われ」たのである(24節)。その苦しみは私たちを救うための代償としてのものであったが、救いを受ける人間側の悪意と侮蔑憎しみに何ひとつ抗弁なさらず、黙って忍ばれた。「彼は苦しんだが、口を開かない・・・毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」の預言に通りであった(イザヤ53:7)。人は受けて当然の叱責や非難に対しても、言い訳を繰り返し、相手の対応や評価を不当と主張しがちだ。ましてや不当な仕打ちに対してはいつまでも根に持ち、恨みをつのらせて報復を考える。だがキリストの救いを受けた者は、心の一新によって自分を変え、「悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」を新しい指針にして行動しようと図る(ロマ12:17)。悪に二倍の善で返す教会を目指そう。

《正しくさばく神に委ねる》 

悪に善で対応すると、相手もすぐに善で返してくれるわけではない。では忍耐して待てばよい結果になるか。そうとも限らない。ペテロは相手への期待を語らず、すべてを神にお任せになった十字架のキリストを示す。ついつい、私たちは人間関係を、「私と彼(彼女)」と、二者の間の問題として見て、神を忘れて視野にいれないでいる。だが、私に彼(彼女)との関わりを許されたのは神であり、隣人として仕えることを期待し、その責任を持ちたもう方は神である。その責任者の神の意向に従うことが、私たちの責務であり、最善の対応策だ。その策とは「神の怒りにまかせなさい・・・悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」であり(ロマ12:19、21)、そのモデルが、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈っておられたキリストである(ルカ23:34)。
このキリストの打ち傷の一部始終を目撃し、そのゆえに救われた自分を知っているペテロの、この大事な勧めを、私たちは真摯に受け取る。そして主に倣って、報復せず、神に委ねて、善にいそしもう。

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