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2012/11/04

11月4日メッセージ「いのちを愛し幸いな日々を見る人」

いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。        
Ⅰペテロ3:10~11(8~16)


《幸いな日々を見る》 

私たちが救いに与かり信仰を持つようになった目的は、神の祝福を資産として受け継ぐ後継者になることであり、いのちを喜びとし幸せな日々を見ることである(8、9節)。自分の毎日すべてを、本当に善い日であった、と見ることが出来れば何と幸いなこと。ただ、神の恵みの幸いな日々とは、自分に好都合な、何の問題もないことを意味しない。キリストの日々こそ、素晴らしい生涯と言うべきではないか。善い日々を見ようと願うなら、「悪から遠ざかって善を行な」うことだ(10節)。そのような人にこそ、神は目をとめ耳を傾けてくださる(詩篇34:15)。神の顧みの中に生きることこそ幸いなことだ。その日々は、神からの祝福ではあり、それを願う人の実践に関わる(マタイ5:10)。

《悪をもって悪に報いず》 

私たちは悪口には悪口で言い返し、侮辱を受ければ仕返しをしないと損をしたような思いになるほど、報復の念を絶ちがたい。しかし、ペテロは「かえって祝福を与えなさい」と勧める。執念深く仕返しを図る私たちだが、クリスチャンには悪に祝福をもって報いるという、驚くべき信仰の創造力を与えられている。善で報いることに徹することで、自分の日々を祝福された幸いな日々に造り直すことが可能とされている。「善に熱心であるなら・・・だれが害を加えるでしょう」(13節)との約束もある。祝福することに熱中している者に、悪は手出しできない。たとえ苦しみに襲われても、祝福することに熱心な者は今日は幸いな一日だったと言うことが出来る(14節)。

《希望についての弁明》

 周囲からの脅しなどの悪に動揺せず、なお祝福出来る秘訣は、「心の中でキリストを主とあがめる」ことにある(15節)。私のためにキリストがしてくださったこと、今も一緒におられること、今後も守り祝福してくださることなどを、自分にとって何よりも大事なこととして尊ぶことだ。私は、キリストの犠牲によっていやされ、神の下に持ち運ばれた(2:24~25、3:18)。十字架を忍ばれ祝福してくださった方を重んじると、悪口に悪口を返さないと損するというような私の計算は成り立たなくなる。悪口や仕返しで平和は到来しない。キリストのなさったことを重んじ、彼に倣おうとする。悪意に対して祝福で応じる。周囲の人はそれをいぶかり、理由を問うだろう。その時に自分の中のキリストを語る。これが、優しく慎み恐れ、二心のない良心からの弁明である。
《教会の中での訓練》 3:8~9に、「あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し・・・かえって祝福を与えなさい」とあったが、誰に対しても祝福をもって生きる訓練は、教会でなされることを意味する。教会の交わりの中で学ぶのである。一つ心になる謙遜も、憐れみ深さも、キリストを主と仰ぐ教会で教えられ、実践を開始する(2:21~24、ピリピ2:3~8など)。

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