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2012/12/17

12月16日メッセージ「教会での牧師と信徒の責務」

あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
Ⅰペテロ5:2、5(1~7)


 ペテロは先に、「万物の終わりが近づいている」、また「さばきが神の家から始まる時が来ている」と述べた(4:7、17)。教会の危機の時が訪れ、教会の実力が試される時が来ている。ペテロは「そこで」と、信徒と牧師の基本的な役割と関係を簡潔に示して、その立場をしっかり守るようにと話を進める。

《長老・・神の羊の群れを牧する》 

「牧しなさい」とペテロはいきなり命じてはいない。「そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。」と述べる。ペテロは使徒中の使徒であるが、彼は自分を上にはおかない。大使徒パウロも、福音に共に仕え労した人々を「同労者」と呼ぶ(ロマ16:3、9、Ⅰコリント3:9、ピリピ2:25等)。どのような役職にあれ、伝道者は教会に仕える奉仕者、しもべに過ぎない(マルコ8:43~45参照)。さらに彼は「キリストの苦難の証人」と自己紹介する。これは、自分は特別にキリストの受難と栄光の目撃者だと主張しているのではない。苦難の中の主イエスを見捨て裏切ったのに、そんな自分がなおもキリストの愛の中に迎えられ、証人とされ、信徒を導き牧する立場を与えられているという意味合いでである。復活の主に回復されたペテロの記事を思い出す(ヨハネ21:15~17)。パウロも「罪人のかしら」である自分のような者が救いを受けて伝道者として立たせられている神の恵みの豊かさを告白している(Ⅰテモテ1:15)。
牧師は、人を導き、養い世話をして育てる「牧する」働きを、神から召されて委ねられ、託された人々に関わる故に、神に責任を問われる(エゼキエル34:2~16)。牧師は召しに応え、そうせざるを得ない自発性(Ⅰコリント9:16)と、損得を計算してではなく「心を込めて」献身的に熱心に仕え、主キリストが模範を残されたように(2:21)、模範となることによってである(Ⅰコリント4:16、ピリピ3:17参照)。実に難しいが、モデルになることが求められている。主の助けなしに、不可能だが、ペテロはそれを命じている(Ⅱコリント2:16)。

《信徒・・長老に従う》 

信徒に対してペテロは一言、「謙遜をもって従うこと」と命じている。牧師伝道者への尊敬と服従失くして信仰は育たない。牧師への尊敬は、信仰生活の中の小さな一つの心得などではない。神が自分にお立てくださり、指導する者としておいてくださった方として、心に位置付けることがなければ、教えは空に消え、養われることもない。羊は牧者に従い行くことで緑の野に、憩いの水際に導かれるのだから。欠点の多い牧師に従がう難しさを越えて。

《全員・・謙遜であれ》 

そしてペテロは、教会内での謙遜の大事を説く。「同じように」とは、「若い人たち」つまり牧師以外の信徒たちに、牧師と同じようにと謙遜を「身に着ける」ようにという。「身に着ける」とは、それが常に備わるようにという意味だ。神が最善の時に引き上げてくださるのに、その時を待たずに自分を高くしてはならない。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言18:12を心しよう。

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