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2012/12/24

12月23日メッセージ「クリスマスを祝おう」


その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
マタイ2:10、11(1~12)


 《クリスマスとは》 

クリスマスという語は、「キルストのミサ」に由来し、「キリストを礼拝する、キリスト誕生を祝う降誕祭」を意味する。東方の博士たちは、遠くメソポタミヤ、ペルシャ方面から訪ねて来たのであろう。ユダヤの王というより、神の国の王となる方が生まれたと信じて、危険な長旅を覚悟での訪問であった。幼子にたどり着いた時、「彼らはこの上もなく喜ん」で、王に拝謁する際の東方オリエントの風習で、最高の姿勢で「ひれ伏して拝んだ」という。彼らの感動と喜び、メシヤ王への感謝と敬意を、「黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ」る行為で示している。博士たちは、幼子を拝謁できたたことで、長旅の苦労も報われたと喜び、再び長い帰路についている。しかも大王ヘロデの意向をも恐れずに報告を拒否して。彼らの姿に、メシヤの到来を喜び、その降誕を祝い、新しい希望に生かされる、真のクリスマスがある。

《クリスマスが出来たのは》 

なぜ、彼らは、粗末な小屋の、みすぼらしい田舎女マリヤの腕に抱かれている無力な幼子を見て喜んだのだろうか。この幼子イエスのどこに、待望のメシヤとしての兆しが見られたのだろうか。目前のイエスは、幼児に過ぎず、奇跡を見せてくれたわけでもない。普通のあかごと変わらず、母の乳を吸い、人の世話を必要とする無力な存在に過ぎない。
博士たちが、幼子を礼拝できた理由は、聖書と神の導きによる。多分、彼らは、旧約聖書を読んでいたのか、その言い伝えなどを知っていたのだろう。紀元前6世紀、バビロンに移住させられたユダヤ人の多くが、ペルシャの各地に散在していた。預言されていたメシヤの到来を星で示された博士たちは、エルサレムで再度預言を聞き星に導かれ、イエスに辿り着いた。聖書の約束と神の不思議な導き、この二つが彼らを動かしている。聖書と神の導きへ信頼が、彼らに、幼子をメシヤと確信させ、最高の礼拝、降誕祭を奉げさせたのであった。

《私たちもクリスマスを》 

私たちクリスチャンは、今、心から「クリスマスおめでとう」と、キリスト降誕を祝っているだろうか。目に映るのは、「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご」に過ぎないが、これを待望のメシヤの確かな「あなたがたのためのしるし」である信じるかが問われている(ルカ2:12)。全能の神は、反逆と不信の思いの私たちの中に、無力なあかごの御子を預けてくださった。メシヤは、人の弱さを知るために私たちと同じ無力な人としてお出でになり、私たちの罪の罰をその身に引き受けてくださった。これが私たちの主の姿であり、私たちが慕い従うお方である。
私たちの目には、依然として解決されない問題があり、私たちの願いは未だに叶えられず、神は無力なのかと思われる。だがクリスマスを止めてはならない。その弱さの中に、全能の神は共におられる。真の人としての生き方は、単に強くなること、望みどおりに進むことではない。主イエスのように、無力さの中で、神と人に仕えることに、私たちは招かれている(Ⅰペテロ2:21、マタイ5:3~10)。神はそのような人と共におられて支えてくださる(Ⅱコリント12:9、10)。

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