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2013/01/06

2013年1月6日メッセージ「神のもとに立ち返る」

 さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは、御前に生きるのだ。
ホセア6章1、2節


《退かれる神》

 「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。」(5:15)とあるように、時には、神は私たちを放置なさる時がある。元々、人は神によって「神のかたち」に創造され、神の息を吹き込まれて生きる者となり、また使命を託されている(創世記1:26~28)。ところが人は、創造主の神に離反してその元を離れ、自由と称して勝手気ままに生きている。そこで神は、神に聞き従おうとしない民を、放置して離れてしまわれることもある(5:6、15、9:17)。神不在は、私たちを不安と絶望に陥れ、神を求めさせる(詩篇78:56~62、イザヤ53:6)。時には、神は、私たちを引き裂き、打ち、苦悩と悲しみを与えることで、罪を知らせ、神の赦しと救出を願わせる(へブル12:5、6)。

《慕い求める民を待つ神》 

ただし、神の退避は永久ではない。「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。」(5:15)。私たちが自分の罪を認めて、神の元に戻ろうとする時までである。悔い改めとは「元のところに帰る」を意味し、私たちの本来いるべき場所、神との交わりに戻ることである。旧約の詩人は、「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮の門口に立ちたいのです。」と、神の宮にいられる幸いを歌った(詩篇84:10、92:13~15)。信仰とは、私たちの中心となる方を求めて、そのふところに帰るという、極めて単純なことだ。現状を嘆き不満を募らせるだけでいてはならない。神を慕い求めよう。神が私たちを引き裂き打ったのは、その罪に気付かせ、私たちを真に生かすためにほかならない。禍に遭遇してもなお、神の元に帰ろうとしない頑固なままでいてはならない(アモス6:6、8他)。遠くに離れた神を知るのは、ごく近くにある自分の罪に気づき認めることにある(5:15)。

《生かそうとなさる神》 

我が子の苦しみを、放置しておこうと思う親はいない。神の元に、悔い改めて帰ろうとする民を、神は待ち受けている。遠く離れているかに思えた神は、帰ろうとする民を、到着を待ちきれずに天から降りて、地上の神として、私たちのそばにあって歩んでくださる。「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」とは、主イエスが紹介なさった神の姿と行動である(ルカ15:20)。すみやかな回復と、恵みの大地が、私たちを待つ(ホセア6:2、3)。主のもとに戻ろう。


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明けましておめでとうございます。この年が教会にとりましても、皆さまの家庭や個人にとりましても、神の恵みと真実とを味わう素晴らしい年となりますようにお祈りいたします。今年の年間聖句は週報表紙にもあるホセヤ6章2節です。神を愛し神に愛される誠実なクリスチャン生活をこの一年を通してお捧げしましょう。
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