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2013/02/24

2月24日メッセージ「これらわたしの兄弟たち」


すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』
マタイ25:40(31~46)


《小さい者の意義》

 これまで人のいのちの尊厳を考えて来たが、聖書は小さな存在を大事にしている意味を、最後に学ぼう。人の能力やや業績また肩書を大きく評価する者は、そのような人の力に依存して、神のお力や助けを二次的なものと考えて、神により頼む度合いが必然的に小さくなっている。聖書は、小さな存在、弱く、惨めな、無力な者を大切にし、大きな働きに用いておられるのだから。
神はご自分の栄光を現すのに、エジプト等の大国でなく、イスラエルという小さな民を選んでお用いになった(申命記7:7)。主イエスの弟子の大部分もガリラヤの無学な漁師たちだ。救いに与かった人々の多くも、世に誇れる人々ではなかった(Ⅰコリント1:28)。だから、教会は人数や会計規模で測ったり、教会員の社会的な地位や収入などで教会の将来を考えてはならない。神は、ミデアンの大軍を、たった3百人のギデオンの兵で戦いに臨ませて大勝利を与えられた(士師7章)。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう・・・大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(Ⅱサムエル14:6)。私たちは小さい。だが神は無限に大きい。とすれば私たちの大小や優劣は大したことではなく、神が味方か否かが最も大事な問題だ(Ⅱコリント12:9、ロマ8:31)。大も小も神のものはみな尊い。自分たちの力や数の大小を問題にするよりも、神との関係の深さ薄さを問題にし、悔い改めて神の介入をこそ祈ろう。

《小さい者への対応》 

マタイ25章に、主キリストが私たちを羊と山羊とに裁かれる時のことが記されている。審判の基準は明白で、私たちがキリストに愛の行為を奉げたか否かである。もちろんクリスチャンなら、キリストに仕えることに躊躇はしない、精一杯に犠牲を払うことも辞さないだろう。だが、キリストは見えない。だから熱心な信仰者は、どれがキリストに属し、どれが無関係かを見極めて仕えようとしてしまう。ところが、私たちが仕え、愛すべき対象は、キリストが「わたしの兄弟たち」と呼んでいる「最も小さな者たち」、つまり私たちの目には、厄介な、関わりたくない、弱く、価値なく、何の得にもならない者たちだという。私たちの主キリストは、そのような、世に軽んじられて、疎んじられている小さな者たちのそばにおられるというのである。
人や物をその大小優劣で評価する者は、小さい者を軽んじ、大きな者に敬意を表し、差別してしまう。そのような態度をとるのは、自分自身の愚かや醜くさ、罪深い者であるかを忘れているからだ。小さい者を前にして、私たちの信仰が鋭く問われている。多分、「いつ、私たちはしたのでしょうか」と問うように、弱者への愛の行為は、自分でこれこれのことをしている等と数え上げることでもないとの、自然のことであったのだろう。多くの罪を許されていることを自覚している者は、自ずと多く愛するものだ(ルカ7:47)。それは自然の、いや自由の愛である。

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