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2013/03/24

3月24日メッセージ「自分を救わずに」


十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
ルカ福音書23:39(33~47)


二千年前のキリストの十字架について、聖書の記述から学ぼう。

《自分を救わず》 

私たちは、自分を救うのに熱心である。人から非難されれば自己弁護に走り、攻撃されれば逃げ場を求め、窮地に立たされれば悲鳴を上げて助けを求める。徹底して自分を守ろうとし、低められると怒り、間違いを指摘されても非を認めず、否定する者に憎しみを向ける。動物も植物も、自分を救おう、高くしようと必死に働く。ところが、イエスはすべての人から侮辱され嘲られたが、自分を救おうとは一切なさらない。なぜか。メシヤは、モーセのような預言者(申命記18:15)で、「もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。」(詩篇106:23)とあるような働きをなさる方だとある。昔モーセは、金の子牛を神として拝もうとして神の怒りに触れ滅ぼされようとしている民に代わり、神の前に立って赦しを願った。主イエスはここで、人々の破れ(罪)をご自分で担って御前に立ち、神の怒りをご自分の身に引き受けておられたのであった(Ⅱコリント5:21)。ご自分を救おうとして、破れ口から離れたら、私たちに救いはない。

《見捨てられ》 

モーセの場合は、神の前に嘆願している時から、民から感謝されただろう。しかし主イエスが、周囲から受けたのは、人々の憎しみと嘲笑、侮辱でだけあった。嘲りは祭司長や律法学者たちからだけでない。ロマの兵士たち(36節)に、同じ時に十字架に架けられていた犯罪者からも、先日まで熱心にイエスの説教に耳を傾けていた民衆(19:48)も罵られた。弟子たちも逃げ去った。頭上の罪状書きさえも侮辱の道具であった。詩篇22:6~8やイザヤ53:2~3、8の預言はその記述通りに成就した。そして「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれたように、神さえも見捨てられ、拒絶されたとある。肉体の苦しみもさることながら、いっさいに希望を剥ぎ取られた、想像を絶する苦悩の死を、全能の神でもあるイエスは、あえて引き受けてくださったのである。私たちの希望のために(ピリピ2:6~8)。

《御手に委ねて》

 確かに十字架に架けられた主は、何もなさらない。なしえないのではない、なさらないのだが、ただ一つ徹底的になさったのは「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(46節)であった。それも大声で最後に残された。何事も出来になる方が、ご自分を見捨てられたかに思える父の神に、なおもご自分のすべてを委任する。ここに私たちの希望があり、決定的な勝利があることを、見ることが出来る。

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