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2013/03/31

3月31日メッセージ「まだ終わってはいない」

そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
ルカ福音書24:32(13~35)

主キリストが死者の中から復活なさった日の午後、二人の弟子が失意の中にエマオ村に向かっていた。三日前の無残な十字架の死を目にした二人には、キリスト復活の話は、信じられるものではなかったのだろう。この聖書箇所から以下のことを学ぶ。

《失意の中に》

 自分のしたことで悔いのないことなど皆無に近い。あの時、こう言えば良かった、なぜあんなことをしてしまったのだろう。こうしておけば問題にはならなかったのに、と後悔し落ち込む。時には人を咎め、周囲を恨むことも多い。エマオ途上の二人も、イエスに大いに期待していた故に、彼の死は大変な衝撃だったろう。エルサレムから西へ夕日を追うように下り道を辿っていた二人は、夢を砕かれ、挫折感に打ちのめされ、顔も心も暗かった。二人の話していた内容も、出口のない、深い絶望感に彩られたものだったに違いない(14、15節)。すべては終わった、結局はダメだった、今さらどうしようもない、あの時こうすれば何とかなったのだろうが、等々。私たちの人生にも、しばしば起こる事態だ。神が見えない時は、あきらめて立ち去るか、せめて香料でもと動くことぐらいしか出来ない(1節)。

《心燃やされて》 

そんな二人に、「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた」(15節)ことから、事態は変わる。彼らが呼んで来てもらったのではない。のっけからイエスであることを名乗り、叱りつけたのでもない。主の側から近づき、二人の会話に入り、諄々と聖書から説明し、彼らが悟るまでと宿にまで付き合い、食事を一緒にし、彼らの目が開かれる時を待ってくださった。「ああ、愚かな、心の鈍い人たち」(25節)と嘆きながらも、その愚鈍な者を見捨てず、不信仰な者に付き合い、その言い分を遮らずに耳を傾け、理解できるまで待ち続けてくださる。復活の主は、失意と挫折に打ちひしがれている私たちに近づいて一緒にいてくださる。それで、私たちは心を熱くされ、キリストを見出す(32節)。絶望に支配されていた心に、新たな希望が徐々に燃え始めたのである。

《すぐに立って》

 主キリストによってみ言葉を解き明かされ、心を燃やされた二人は、躊躇なく弟子仲間に復活の主を伝えようと、夜の坂道を駆け上がってエルサレムに戻った。喜びを自分たちだけのものとしては置けない。帰ってみるとすでに、使徒たちに復活の主を知って喜んでいた。無駄ではない。復活は皆で喜ぶのがふさわしい。クリスチャンにとって、「終わってしまった。結局ダメだった」と思うところが始まりだ。そこから復活の主の支えと力が始まることを信じよう。

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