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2013/05/05

5月5日メッセージ「希望の信仰をもって」

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ人への手紙15:18


《大地は希望を告げる》

 春は何となく華やかな感がする。先ず、長かった寒く薄暗いイメージの冬が終わり、明るい空と温もりと薄緑の草木の中に咲く色とりどりの花だけではない、新学期、新年度などの新たな装いなどが始って、そう感じるのだろう。水が張られた田圃に苗が植えられ、秋の実りを期待させる。梅や桃の花が終わったかと思うと、小さな果実が見え始めている。一斉に、何かそれぞれの実りを求めて、「始まり」がスタートしたようだ。大自然の春は希望を告げている。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ」(詩篇62:5)。それら自然のすべては希望の神によって創造され、希望の神の支配の下にあるのだから。

《私たちは希望をなくしている》 

しかし、人の営みは人の望むようには行かない。期待に程遠い結果に終わる現実を、何度となく直面すると、希望も凋み、期待することもなくなってしまう。いつしか、希望は失意に終わるものと思うようになる。仕事も家庭もそして信仰も、確かに放り出しはしない。自分は簡単に事を投げ出すような人間にはなるまい、逃げ出しはしない。かってのように希望に満ちた喜ばしい思いが無くなったとしても、最善を尽くしてやって行こうと思っている。それは復活を信じなかった弟子たちの姿だ。すでにキリストは約束通りに復活なさっていたが、婦人たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」と話し合っていた。復活の主に会った婦人が、「イエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしなかった。」という姿に似ている(マルコ16:3、10~11)。

《私たちは望みの神を信じている》 

自分が信じたことを後悔はしないし、間違ったとも思わない。いやこれが真理であり正義だ。だが、もう、あの輝かしい、喜びと希望に満ちた時期は過ぎたのだ。ただ決心したことはやり遂げよう。この考え方は立派にも思える。だが、これは悪魔の誘惑であり、教会が直面する最大の危険かも知れない。それは信仰を単なる義務的なものに引き下げ、形式的な精神で行なわせるだけのものに、信仰を引き下げてしまう。冒頭の聖句のように、望みの神への祈りと期待とを、取り戻そう。私たちの神の計画は、「わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのもの」である(エレミヤ29:11)。失望とあきらめに道を譲ってはならない。あのエマオ村から夜道をエルサレムにとって帰った弟子たちのように、希望の神を見上げて、望みをもって歩もう。「もし私たちが、確信と、希望による誇りとを、終わりまでしっかりと持ち続けるならば、私たちが神の家なのです。」(ヘブル3:6、参照ヘブル10:23、詩篇130:5)。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました」とある信仰の父アブラハムの例に倣うようになりたいものだ(ロマ4:18)。

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