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2013/07/22

7月21日私たちはキリストの弟子

バルナバはサウロを捜しにタルソへ行き、彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
 使徒の働き11章25、26節

バプテストの教会契約を何回かにわたって学んできた。これから数回にわたって、新約聖書時代のクリスチャンはどんな生き方をしようとしていたのかを、聖書から学んで、自分たちクリスチャンの立場を教会の皆さんと再確認しておこう。先ず、当時のクリスチャンは、「弟子」と呼ばれていたことから、考えよう。

《召し出されて》 
私たちクリスチャンは、キリストの召しによって弟子とされ(マタイ4:18~22)、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)とあるように、キリストの選びによる。私たちがキリストの弟子にふさわしい能力や功績があったからではなく「無に等しい」者だったからだ(Ⅰコリント1:28)。キリストにある一方的な恵みの選びによって召し出されたのであり、神に栄光が帰されるためでもある(エペソ1:3~6)。

《主キリストに学び》 
弟子とは「師に学ぶ者」である。「弟子入りして学ぶ」という言い方を私たちも使うが、新約聖書の弟子という言葉は「学ぶ」という語に由来する。しかし聖書には、キリストの弟子であることを終了して、師から学ぶべきことを学び終えたという記事はない。キリストの代表的な弟子たちは何を学び知ったのであろうか。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。」(ヨハネ14:9)とイエスが言われたように、弟子たちの習得すべきことは、ナザレのイエスが何者であるかを、一緒の暮らし、その言動全体から学ぶことであった。使徒を補充する際の基準も主イエスと一緒に暮らしたかにあった(使徒1:21~22)。学ぶべき目標は、イエスを「あなたは生ける神の御子キリストです」(マタイ16:16)と理解し告白することであり、その意味合いを知って行くことにある(エペソ3:16~19)。

《キリストに従い通す》 

弟子はまた師であるキリストに従い行く者だ。「彼らはすぐに網を捨てて従った」、「彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った」(マタイ4:20、22)とある。自分の都合や仕事よりも、時には父の葬儀も差し置いて、キリストに従うことを優先させる。イエスの弟子たちは、彼に従うためなら死も覚悟であった(ヨハネ11:16、13:36、37)。その時になると逃げだしてしまったのだが。また弟子は、「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14)とあるように、師に倣う者でもある(へブル12:2、Ⅰペテロ2:21)。しかし、それは単に倫理的な意味でキリストに倣うことではなく、キリストの十字架の救いに与かった上での喜びの奉仕としてである。

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