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2013/07/29

7月28日 私たちはキリストの僕(しもべ)

 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。                              ルカ福音書17章9、10節(5~10)

 クリスチャンは「僕(しもべ)」とも呼ばれている。使徒ヨハネもペテロもパウロも、自分たちをキリストのしもべと呼んでいる(黙示録1:1、Ⅱペテロ1:1、ロマ1:1等)。しもべの意味することを考えてみよう。

《しもべは主の所有物》 
 しもべはその主人の所有物で、クリスチャンは「代価をもって買われたのです。人間の奴隷となってはいけません。」(Ⅰコリント7:23)と勧められている。私たちは自己への主権と支配を主キリストに委ね、その指導に従う。そして、「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」(ロマ14:7、8)と告白する。私たちの所有者キリストの支配権を全面的に認め、その指示のまま、喜んで仕えよう。

《しもべは仕える者》
 しもべは「仕える者」の意で、主人に奉仕する存在だ。パウロは、自分をキリストのしもべ、福音の使徒と紹介し(ロマ1:1)、生涯をキリストと福音に仕えた。彼の奉仕の原動力は、罪人の自分が愛され(ロマ5:8)、キリストの愛に駆り立てられて(Ⅱコリント5:14)と、もらったので返すという報恩の思いからに見える。しかし報恩以上の力が働いている。「このキリストによって、恵みと使徒の務めを受けました」(ロマ1:5)とあるように、救いの恵みと使徒職への召しが並んで記されている。クリスチャンの救いは、神に仕えるしもべとしての召しを受けることでもある。主のために苦労しないクリスチャンなど存在せず、義のしもべか、罪の奴隷か、どちらかしかいない(ロマ6:12~19)。古い自己と真剣に闘い、キリストの御用に身を奉げて仕えるしもべであろう。

《しもべは謙遜な者》 
 信仰の増大を求めた弟子たちに、イエスは、自分の信仰の大小に目を留めるより、しもべであることを自覚し、徹底して仕えるように諭された。十分に働いたのだからと追加の仕事を拒まず、感謝を求めず、命じられたことを果たし、すべきことを不十分だが果たしただけと、主人に詫びる。そのように仕えよと。彼の謙遜さは、自分の無力、愚かさ、罪深さを承知し(詩篇51:4、5)、そんな自分を、神が十字架の愛をもって救い、キリストの僕として召してくださったことを光栄とするところから生まれた(Ⅰテモテ1:12、13)。謙遜とは、自分を自己の実力以下の存在であるかのように他人に示すことではなく、自分が相手以上の実力を持っていることを自負しながらも、控え目に示すことでもない。真の謙遜は、自己の実力について自分が持っていた自覚や評価がまったくの買い被りに過ぎなかったことを知って、その高慢さを悔い改め、自分の実力が無力そのものであることを正直に告白することだ。パウロはその良い例である(ピリピ3:7、8)。

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