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2013/08/26

8月25日「私はなお、主に希望をもつ」

主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
詩篇130篇1~6節

《深い淵から》

「深き淵」とは底なしの淵、足がかりのない、底知れぬ不安の中にぐいぐいと引き込まれて行く所である。当時の世界像では「冥府(よみ)」を指し、神との交わりを絶たれ、神の光の射さない場所を言う。その神に捨てられ希望のない場所から、なおこの詩の作者は神に呼び求めている。信仰は、神の恵みにあふれている時だけでなく、神から最も遠く離された場所からも、なお神を呼ぶことである。その時最も遠い神が最も近い神になっておられることを経験する(詩篇69:1、2)。ではこの詩人は、どんな淵に置かれていたのか。「不義に目を留められるなら、だれが御前に立ちえましょう」とある、己の罪のゆえの深遠である(イザヤ59:1、2)。人との不和や不信、難病、事業の失敗など、境遇上の苦悩は、人を地に倒す。だが罪は神の怒りを呼び、人を底なしの深淵に追い落とす。そして私たちも、詩人と同じく、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と叫ばざるを得ない罪人だ(ロマ8:24)。
《許しがあるので》神は罪を罪として厳正に罰せられるが、同時に、キリストによって罪人を罪人となさらぬ方でもある。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)。神を畏怖しない者は神に許しを叫ばない。神以外のものを恐れる人は、神以外のものから恩寵と好意を求め、神を問題としない人だ。神を恐れる人は神に恩寵を求め、神以外のすべてのものを問題にしない。神の恵みに浴する者に、誰も害を加える者はいないことを承知しているからだ。詩人は、「あなたが赦してくださるからこそ」と神に呼びかける。その恵みの豊かさを信じて求める続ける(Ⅰテモテ1:15~16)。

《主を待って》
神には、遠く離れた深い淵の中からの、うめき求める小さな声が聞こえないわけではない。神の救いは、神に呼び求めた時に、すでに与えられている。それを私たちが手にするに最上の時まで、神は私たちを待たせておられる。そして私たちは、その神の時を信じて、「イスラエルよ。主を待て。」(7節)との詩人のことばに励まされて、待ち続ける。しかも「夜回りが夜明けを待つにまさって、主を待ちます。」との、主への期待に目を凝らし、暗く不安の夜空の中で、必ず訪れる希望の朝日を待望するかのように待つのである。信仰とは待望でもある。

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