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2013/09/06

9月1日「私には負債がある」

だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。ロマ書13章8節(8~10節)

この言葉は、クリスチャンは一切借りてはならないと言っているわけではない。主イエスは、借りようとする者に断らず、返済を当てに貸すな、と教えておられる(マタイ5:42、ルカ6:35)。納税や返済の義務は市民として当然に果たすべきだが、ただ払いきれない愛の負債だけは例外だとある、この愛を考えて見よう。
《巨大な愛を注がれ》 「互いに愛し合いましょう」と言われても、私たち自身の愛は小さく弱い。相手の反応が好ましくなければ続かない。しかし、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです」(Ⅰヨハネ4:7)とあるように、愛はすでに神から注がれている。しかも、その愛は、ご自分のひとり子を身代りに提供なさるほどに巨大であり(ヨハネ3:16)、神に逆らい続けているような、受ける価値のない罪人にも注がれている(ロマ5:8)。神の巨大な愛は私たちを捕らえて離さず、何ものをしても神のその愛から、私たちを引き離すことは不可能だ(ロマ8:35~39)。

《愛を負債として》
 神から受けた愛は、「一万タラントの借り」(マタイ18:24)と喩えられるほどに大きく、私たちは返済不能の愛を神から受けた身であることを主イエスは教えている。パウロも「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」(ロマ1:14)と語っている。負債の返済というと、厳しい耐乏生活を余儀なくされると想像する。でも、私たちは神からの有り余るほどの豊かな愛を注がれ、その愛を手にしている。私たちが命じられている愛は、自分が搾り出してささげるのではなく、神が私たちにすでに与えておられるものに基づくものだ。神と人とに気が狂ったかのように仕えたパウロの原動力を、彼は「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるから」(Ⅱコリント5:14)だと告白している。神の愛に押し出され、駆り立てられてのことだと。負債は返さなければならない。

《愛は律法を完成する》
 神の教えは十戒に要約されており、それは神を愛することと、人を愛することの二点である。「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」との冒頭の聖句は、続く10節の「それゆえ、愛は律法を全うします」で補完されている。「互いに愛し合うこと」は、私たちが神から受けた無限の愛への返済行為であり、愛したからといって特別の行為をしているわけではない。すべきことをしているに過ぎない。神から受けている愛がどれほど大きく深いものであるかを、聖書と聖霊に教えられ、心に深く刻まれて行くことによって、「愛して当たり前」という信仰に至りたいものだ。許された罪人、莫大な愛の借金を負う者としての自覚と感謝こそ、律法を全うする鍵である(マタイ18:33参照)。

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