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2013/09/22

9月22日メッセージ「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
マルコ福音書1:2~4


《福音のはじめ》 

この「はじめ」は、この福音書の最初の記事というより、主イエスの十字架と復活までの福音書全体を指しているとも言える。創世記が天地創造という大事業を神が言葉によってお始めになられたように、神は言葉によって、罪と滅びの中から義と救いを私たちのために確立される働きを始められたことを述べようとしているのである。その言葉が福音で、それは「大いなる良き知らせ」を意味する。その重要性は「福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません」(10:29、30)とあるほどだ。またその喜びの事件は、自分の手元に留めて置くものではなく、より広く多くの人々に伝えるべきダイナミックなものである。

《イエス・キリストの福音》 

福音というギリシャ語は、当時はよく王に世継ぎが誕生した際に使われた。確かに世継ぎの誕生は王国に安定をもたらし、戦乱を避け得たかも知れないが、必ずしも人々に平安をもたらすとは限らず、ましてや真の祝福を約束するものではなかったので、当時の人々は福音と言われても何の期待も抱けなかっただろう。しかしここに、「神の子イエス・キリストの福音」とある。それはイエス・キリストの説教だけでなく、彼の行いも人格をもすべての事実を含む。福音を学ぶとは、それゆえキリストについての知識を習得するだけでなく、生けるキリストに出会うことを意味する。「神の子の福音」とは、偉大なイエスという人物が発見したことを教えてくれたのではなく、神が御子イエスを通して福音をこの世界に公布されたことを意味する。

《主の道の用意》 

この福音書は、イザヤ書の引用をもって始まっている。「歴史は非継続的な出来事のでたらめな万華鏡ではない。歴史は、最初に最後を見ておられるアルファにしてオメガの神によって導かれている過程である。」(W.バークレー)。神は将来への配慮をもって世界を治めておられる。私たちは絶望状態をわきまえると、一挙に福音に飛躍して解決が得られると思ってはならない。成就に先立って約束を知ることがなければあやふやになる。神は聖書を通して聖霊によって、私たちを必要な過程を通して導かれる。預言者マラキは、終わりの日の神の救いとさばきの前に、その前触れの使者を遣わすと預言していた(マラキ3:1)。そしてそれに先立つイザヤは、バビロン捕囚の苦悩から民を解放するのでその道を備えよと預言し、マルコは主メシヤがその民を慰めるために急ぎお出で下さる道として紹介している。

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