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2013/09/29

9月29日メッセージ「聖霊のバプテスマを授ける方」

私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。
マルコ福音書1:8(1:1~8)

福音とは、神の子イエスが神の国の王となられて、私たちを信じるだけでその住民として迎え入れてくださるということである。マルコは、その福音のいきさつを本書に書こうとして、旧約聖書の預言から始めていることを、前回は学んだ。


《この書は福音書》

 マルコはこの書を福音として書いている。教会は聖書を皆で読んで福音に接して喜ぶ。聖書はどこを読んでも、神の恵みによって生かされ、導かれ支えられていることを知らされて感動する。人と語り合うために教会に集っているのではない。聖書から、神の深い配慮と知恵、そして愛の取り扱いを見つけて喜ぶためである。マルコは、御子が私たちを愛し、私たちに仕える王として来られ、私たちにいのちを与えられたという福音を知らせようと、この書を記し、私たちを励まし勇気を与えようとしているのである(10:45)。福音の喜びに与かるまで掘り進めて読もう。マルコは福音の書物なのだから。

《バプテスマのヨハネの出現》 

マルコは、質素で禁欲的なヨハネの登場から書き始めているが、彼の姿から喜びを見出すのは難しい。でも、ヨハネの登場は旧約預言の成就だ。イスラエルは長く他国の支配下で屈辱的な生活を強いられたが、神はその罪と滅びから民を解放するメシヤを遣わすことを約束された(イザヤ40章他)。メシヤ到来に先立ってエリヤを派遣してメシヤを迎える準備をさせるとも言われていた。そのイザヤやマラキの預言の成就がヨハネの登場で始った、とマルコは言う。ヨハネの姿は約束のエリヤであることを教えている。荒野はエジプトとカナンを隔て、捕囚地と故国を分断する、故国への通り道でもある。そして、ひとり神の前に立って自分の本当の姿を知り、神の声を聞く所でもある。荒野で、人は自分の罪を認めて悔い改め、神に帰ろうと決断して、ヨハネからバプテスマを受けたのであった。誰もが、荒野を通って自分の罪を知り、これまでの自分は間違っていたと告白し、向きを変えて神に帰る必要がある。悔い改めは新しい方向への転換、バプテスマも新しいいのちへの出発を意味し、共に喜びの福音である。

《聖霊のバプテスマ》 

ヨハネの後に到来なさるメシヤは、ヨハネがその方の奴隷となる資格がないほどに高貴なお方、神である。その神が、私たちのために神の国の基礎を据えようと人となって地に降られる(ピリピ2:6~8)。そして聖霊のバプテスマを授けてくださる。預言書に、極度の災いの中にあったイスラエルが、悔い改めて神に帰る時、神は大いなる祝福をもって民を迎え、聖霊を注がれるとある(ヨエル3:12~32)。聖霊は神ご自身でもある。この方が私たちを新生させ、生ける水の尽きない泉のように永遠のいのちを与えてくれる(ヨハネ4:14)。聖霊は、私たちに道を教えて賜物を与え、その品性をも変える。その祝福への道がこれから開始されると、最後の預言者バプテスマのヨハネは語った。喜びの福音と言うほかはない。

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