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2013/10/27

10月27日メッセージ

人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」
マルコ福音書1:27(21~34)


《安息日に会堂に入って》

イエスは、新しい神の国の福音を、古くからあるユダヤ教の会堂(シナゴク)で説き始められた。私たちはともすると新しいことは旧来のやり方を変えて、と伝統を破って始めがちだ。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れる」(2:22)とイエスも言われた。しかし私たちは、ともすると中身に新しさがない中で、場所ややり方など、形だけを変えようと騒ぐだけの変革に終わってしまうことが多い。主イエスは、古いものの中に入って礼拝を守られた。だが中に新しいことが生じて来た時、古い会堂は、イエスとその弟子たちを追い出した。新しい神の国の福音は、先ずは今置かれているところで語られ、信じられ、力を現す。中身が新しくされず、形だけ変えても何も生まれない。福音は古い会堂で新しい事を起こし、人を変えてその思いと行動を新しくする(Ⅱコリント5:17)。

《権威ある者のように》

会堂では、聖書が読まれ、次にイエスがお語りになったのだろう、「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と。その主の教えは単なる言葉の説明ではなく、成就の宣言であって、そこに人の抵抗し難い権威があったのだろう。人は自分の権威を示すため、その能力や立場を証明する資格や経歴また人からの評価を持ち出す。だがイエスは神ご自身でありいのちのことばそのものであられた(ヨハネ11:25、14:6)。その言葉は、この全世界のすべてを創造されたものであり、今もすべてを支配し維持している力あるものであった。すべての権威は神にあり、神から出ている。またその真の権威は、神を信頼し神を畏れる者に、内的霊的力となって宿る。「誰かがこういっている、これが慣習だ、多くの者がそうしている、どう評価されるか・・・など」に権威はない。ただ、「神がここにおられる、神がこう言われる、聖書にこう書かれている」、それに全面的に従う者に真の権威性が与えられる。

《汚れた霊をも戒め》

「驚いた」という言葉が原語は違うが二度出てくる。驚きや衝撃は、日常性を打ち破り、新しい世界を見せてくれる大事なきっかけを提供してくれるものだ。主イエスは、古い会堂の中で、伝統の因習や戒律に囚われていた人々に、教えと奇跡をもって驚きを与えた。古い世界を破り、そこにいた悪霊をも追放する力を持つ、神の国の到来、メシヤの登場を告げたのである。イエスは汚れたものを避けてはおられない。汚れた霊に正面から出会い、その霊に囚われていた人を解放したのである。パリサイ人たちは、その名(「分離」を意味する)の通り、汚れから分離し、罪人や汚れた霊に憑かれた者を軽蔑し、近寄らないようにしていた。だが医者が病人のところに出かけて癒すように、主イエスは、問題を抱える人たちの友となってお仕えくださった。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(2:17)。

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