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2013/11/17

11月17日メッセージ「深い憐れみ」

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった。
マルコ1:40~42

《イエスは差別されず》 

当時らい病患者は、治療もなされず、肉体的に悲惨な状態にあっただけでなく、神に呪われ罰を受けている者と考えられて人々から忌み嫌われていた。家族と離れて郊外に隠れるように暮らし、道を歩く時も、人と触れることのないように、「私は汚れた者です」と水から叫びことが義務付けられていた。家族からも見放され、宗教上も呪われた者と見做されて、絶望の中で生きた屍のような存在であった。その彼がイエスのうわさを耳にし、メシヤとしての到来を確信したのだろう。らい病患者の立場の決まりを破って、決死の思いでイエスに願い出た。その彼を、主イエスは退けず、逆により近づいて触られた。「人はうわべを見るが、主は心を見る」(Ⅰサムエル16:7)。イエスは人を差別されない。教会もそうでありたい。

《主イエスはあわれみ深く》 

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって」(41節)。らい患者の彼が人の手に触られたのは何時のことだったのだろうか。家族も忌み嫌って避け、誰も触れようとしなかった彼の身にイエスの手が置かれた。発病以来の深い悲しみと苦しみの刻まれた彼の身に、神の国の王メシヤの温か手が伸ばされた。彼は「お心一つで」、「イエスが望んでくださるのなら、私はきよめられます」と言った。イエスへの素晴らしい信仰告白である。「深くあわれみ」の語はイエスのみに使用されている珍しい語で(6:34、8:2)、内蔵が千切れるような痛みを意味する深い同情を表している。ある写本には「激しく憤られて」という語が用いられている。らい患者の置かれている悲惨な状態を来らせた罪に対する主イエスの思いを表現しているのだろう。それはラザロの死を悼んだ時にも見られた(ヨハネ11:33、38)。「すると、すぐに、そのらい病が消えて、その人はきよくなった」。その深い同情は、触られた手を通して主イエスご自身が彼の問題を引き受けられることを暗示している。全能の神イエスのみ心に私の問題を委ねよう。

《主イエスは名声を好まぬ》 

癒された彼は、喜んで自分の身に起こったことを人々に伝えずにはおれなかった。彼は善意で「ふれ回り、言い広め始めた」(45節)。これは福音宣教で使われる言葉であって、決して悪い行動ではない。だが癒しの奇跡だけが取り沙汰されると、イエスは難病さえも癒す方としてだけ受け取られ、それらの問題の原因である罪の許しという面が見落とされてしまう。主イエスは、私たちを罪の縄目から解放し、神との和解の中に生きられるようになされるためにお出でになったメシヤである。使徒パウロも十字架こそが福音の中心であることを繰り返いし語っている。「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」Ⅰコリント1:17、18。

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