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2013/11/05

11月3日

イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」マルコ福音書1:38(32~39)

《夕方になって日が沈むと》
シモンの姑の癒しを聞き知ったカペナウムの町中の、病気に苦しむ人々が、日が沈みのを待ちかねて、夕暮れの中イエスが滞在しておられた家に押し寄せてきた。神が祝福を与える日として定められた安息日が、早く終了するようにと待たれる。なぜか。安息日は働いてはならない、医療行為も労働だからしてはならないと、律法学者は決めて、その言い伝えを優先させていたからである(7:8参照)。現実の病も苦しみだが、人の忌み嫌う偏見や蔑視の目から来る苦悩がある。障害者は障害による苦しみに加えて、障害者を見る人々の偏見や差別観に苦しめられるという二重の重荷を負う。しかし、神の戒めの中心は、神を愛し人を愛することだ。主イエスは、安息日にも病を癒し人を苦しみから解放される(3:4)。「主の御霊のあるところには自由があります」(Ⅱコリント3:17)。

《悪霊にかたることを許さず》
悪霊どもは、イエスが神の御子である知っていた(5:7)。だがこの方が、十字架と復活によって人々を罪と死から解放されることは知らない。病を癒し悪霊を追い出す力のある方だとだけ知るような知り方を、イエスは喜ばれない。イエスはメシヤである。神の国の創始者として世に下られた王で、人々をその王国に迎えるために十字架に上られた方である。それを省いた知り方を拒否される。使徒パウロは、「わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心した」(Ⅰコリント2:2)と言い、「ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。」(ガラテヤ3:1)と十字架の贖いを忘れた知り方を嘆いている。

《祈りのために出て行き》
イエスは夜中まで働かれたが、弟子たちがまだ寝ている早朝、父に祈るため人目を避けて「寂しい所(原語「荒野」)」に行かれた。主はしばしば一人神の懐に沈んで祈る時を確保された(6:46、14:35)。主イエスの働きは祈りに裏打ちされて進んでいる。もちろん神は何処にもおられ、いつでも祈りを聞いてくださる。だが、安易で横着な、甘えた心で祈る祈りに、神は真剣に耳を傾けてくださるだろうか。断食して、「自分はこのような犠牲を払って祈っているのだから・・・」と迫るのも押し付けがましい。だが、真剣に自分を省み、ひとり神に向かう姿勢は信仰者に欠かせない(Ⅱコリント13:5、創世記28:17参照)。

《別の村里に行こう》
夜明けを待ちかねた人々が再び押しかけてきたのだろう、目覚めた弟子たちはイエスを探し出し、人々を癒して評判を立て、名声を上げる好機だと勢い込んでイエスに家に呼び戻そうとした。だが主は、癒しのご利益を提供するためではなく、神の国の福音、罪を悔い改めて救いを受け、神の国の市民として生きる人々を招くためにお出でになった。神の国の福音宣教を第一せず、癒しのようなご利益を第一とするところから、主は去って行かれる。「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(Ⅰコリント1:18)との言葉を忘れてはならない。

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