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2013/12/01

12月1日メッセージ「わたしについて来なさい」

イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
マルコ2:17(13~17)


《福音は決断と行動を求める》

 主イエスは、会堂で教え、民家で語り、湖畔で説教と、忙しく働かれたが、取税所のレビにも目を向けられた。取税人は異教徒の支配者の手先になって、神の民である同胞から思いのままに税を取り立て、私腹を肥やす売国奴、人非人で、遊女や悪人と同じと見做されていた。そのレビに、「わたしについて来なさい」とお命じになった。「すると彼は立ち上がって従った」。信仰は、教えを理解し反省し、神への信頼や熟慮も必要だが、決断し立ち上がり、イエスに従う行動がなければ、絵に描いた餅に止まる。主イエスに全面的に主イエスに聞き従い、生活を共にすることである。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と(ガラテヤ2:20)。それは十字架を背負う覚悟をも必要とする(8:34)。

《福音は会話と食事である》 

主イエスに招かれたレビは、自分の家に彼を招き、大勢の仲間との食事を提供した。その席はレビにとって古い生活に決別の表明であったのだろう。福音書は天国をしばしば宴会に譬えている。「だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。食卓を囲んで会話する、愛餐は一種の家族的な交わり、その中で信仰は養われ励まされ教えられる。神の国を表現する、共に生きる象徴でもある。十字架の福音を、教会は聖餐式として表現している。主イエスは、私たちをその交わりの中に招いてくださったのである。

《福音は罪人に提供されている》 

「こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである」とある宴会を、宗教上の戒律を厳格に守っていたパリサイ人律法学者たちは咎めた。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」と。時には死を覚悟するほどの大きな犠牲を払い、禁欲的な生活をもって神に仕えていた彼らには、戒律を無視して罪を重ねてきた連中を容認するかのようなイエスの姿勢にがまんがならなかったのだろう。それに対する答が、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」であった。自分が病人であることを自覚せずには医者を求めない。罪人の自覚なくては神からの救い、福音を求めない。主イエスは一切の差別無く、罪人を救いに招いておられる(ロマ5:20)。感謝して信じ従い行こう。

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