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2013/12/16

12月15日メッセージ「かたくなさは殺意を呼ぶ」

それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
マルコ3:4(2:23~3:6)

主イエスの一行は食事を摂る間もない忙しさだったのか、弟子たちは通りすがりの畑の麦を摘んで腹の足しにした。ひもじい者に許された行為であった。問題は、穂を摘むことは刈り入れ、摘んだ穂を手で揉んで殻をとることは脱穀、それらは律法が安息日に禁じている労働に当たる。それでパリサイ人は弟子たちを咎めた。

《イエスは安息日の主》 

イエスは安息日の律法を否定されたのではない。パリサイ人の歪めた規定解釈に縛られること無く自由に行動なさった。安息日は本来、人を仕事の奴隷状態から解放して休息を与え、神の下に立ち返って礼拝し神からの祝福を受けるために神が設けてくださった日である(出エジプト20:8~11、申命記5:12~15)。イエスは、昔ダビデがサウルから逃れる途中、祭司だけが許されていた供えのパンをもらい、彼とその部下が食した例を挙げた。それは、油注がれた王だから許されたことだが、ダビデに勝る神の国の王であるご自分に許されていることだと主張なさった。さらに、安息日は人を祝福しようと設けられたもので、今「安息日の主」であるご自分が、民に恵みを施し祝福しようとここにいると宣言されたのである(コロサイ2:17)。安息日は、苦しんでいる者たちがこの主を迎えて恵みに与かる日なのだから、手の萎えた人が癒しを受けるに何の差支えもない。私たちは、キリストによって完成される永遠の安息に招かれている。

《人の心のかたくなさ》 

パリサイ人は決して悪人ではない。犠牲を覚悟で敬虔な生涯を送ろうと決意した人々である。その彼らが、安息日のことで衝突し、イエスに殺意を抱くほどの憎しみに駆られ、「ヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた」(3:6)とある。ヘロデ党はヘロデ王家を支持して世俗的な権益を守ろうとする人々で、パリサイ人と犬猿の仲であったが、イエスを排除しようとすることで一致した。パリサイ人のひとりであったパウロは、「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより」(ロマ5:8)と書いている。その罪とは、神とキリストに逆らう罪であり、今の私たちも抱くものだ。「安息日には一切の労働は断じて許されない」と教えてきたパリサイ人に、イエスは「安息日にしてよいのは、善か悪か、どちらなのだ」と問われても、沈黙してかたくなに拒絶し、イエスに怒りと悲しみを与える(3:4、5)。自分のものさし、考えを絶対化し、それを否定されると、怒りと憎しみで応じる。誤った正義感が、怒る者の心を支える。彼は自分の正義感そのものの問題に気づこうとはせず、周囲の助けを必要とする者たちへの配慮を失う。聖書の原則は断じて曲げられないが、自分の主張の勝ち負けにこだわり、柔らかな心を失い、他者を押しのけ排除するような憎しみが支配するようであってならない。敵意さえも十字架において変えてしまわれるキリストに帰ろう(エペソ2:14、15)。

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