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2013/12/08

12月8日メッセージ「新しいぶどう酒は新しい革袋に」

だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。
マルコ2:22(18~22)


《新しいぶどう酒は新しい皮袋に》 

当時の熱心なユダヤ教徒なら誰もが断食を守っていた。イエスの譬えに、自分は週に二度(月曜と木曜)断食していると言うパリサイ人が登場している(ルカ18:12)。イエスは断食を否定はなさらない。公生涯に立つ前に40日間の断食をされ、「この種のものは、祈りと断食によらなければ」とも教えられた(マタイ17:21)。しかし断食は、祈りに集中するため、また悲しみ、悔い改め、深い嘆きを表現するもので、習慣化させ誇るようなものではない(マタイ6:16~18)。断食をしていないイエスの弟子たちを、パリサイ人は非難した。ヨハネの弟子たちもその批判に加わっていたようだ。なぜか。なぜ人々はイエスにつまずくのか。彼らが特に愚かで傲慢であったからではない。イエスに関わろうとする時、私たちも含め、すべての人に愚かさが出てくる。それは、イエスの教えと行動を、ふるい皮袋で受け取ろうとするからだ。聖書の言葉を受け入れようとするなら、それを受け入れる人自身が新しくされ変わらなければ、受け入れることができないからだ。古い自分にこだわり、それを変えようとしないで、自分で問題だと思う一部分だけ、神に解決を願うのではなく、先ず入れ物の自分自身を、神に新しくしてもらう必要がある(Ⅱコリント5:17)。

《花婿に付き添う友だちとして》 

ではイエスの言われる新し布、新しい皮袋とは何を指すのだろうか。古い皮袋は、これまでのイエスを知らない生活であり、新しいぶどう酒は主イエスご自身、新しい皮袋はイエスを迎えた弟子たちの生活ぶりである。パリサイ人が批判したのは、何を食べたかわからないが、レビの家での宴会から聞こえる、にぎやかで楽しそうな弟子たちの様子である。福音を信じると言うことは、信じていなかった時の考えや習慣とは継はぎ出来ず、無理に継ぎ合わせようとすれば古い着物を引き裂いてしまうものだ(21節)。古いものに拘ってはならない。福音を信じることは、花婿の友人として結婚式に招かれその席にいるようなものだ、とイエスは言われる。それは、きちんと断食を習慣としていた、信仰を大事にする当時の人々から異質のものに見え、批判された(マタイ11:19参照)。ここでは食事が問題とされているが、主キリストを信じて自分の心の家に迎えるならば、当然に私たちの生活ぶりも、考え方も、時には趣味や好みまで変化して行く。食事の姿は、日常生活の中でも、それを摂る人の自然の姿が最も良く現れるものだ。家族の状況も食卓に映し出される。旧約聖書では、神のことをイスラエルの民の花婿と表現している。パリサイ人は、断食を習慣化し、誇る。だがそれは神の忌み嫌うことだ(イザヤ58:4~12)。しかし、イエスの弟子たちは今、生ける神の働きを味わい、御子が共にいてくださるので、感謝し喜び、歌を歌わずにはおられない。教会は、キリストを夫とする生活を許されている(エペソ5:25)。教会の食事は大事である。

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