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2014/01/11

1月5日メッセージ「神のぶどう園で働こう」

なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。・・・あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。
マタイ20:6、7(1~16)


今年2014年も、神が私たちのために設けてくださった日々だ。私たちを生かしておられる神は、私たちに何らかの課題を託してその働きに期待しておられる。

《仕事もしないで》 

私たちの多くは、結構毎日忙しく学びや仕事に従事していて無為に過ごしているわけではない。だが神に創造され生かされている人間として、肝心の神のみ旨に沿った労働に従事しているかが、ここで問われている。神との交わりの中で働くことなしには、すべては無為に過ぎず(伝道者2:11)、無意味な迷いの道を空回りしているようなものだ(イザヤ53:6)。私たちは今、神の御旨に沿って暮らしているか否かを点検してみよう。信仰によってと思い込んでいても、神のみ心から離れた奉仕もある。そんな働きは、ちりあくたに過ぎない(ピリピ3:8)。放蕩息子の譬えでも、兄息子が「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません」と主張しているが、父の心に共感することもなく、兄弟の家出を悲しみ、帰還した弟を父と一緒に祝い喜ぶことも出来ない心での労働や奉仕は空しいと、主イエスは教えておられる(ルカ15:29、へブル11:6)。

《朝早く出かけた主人》 

ここでは、労務者(人)が仕事口を求めて走り回り、農園主(神)に懇願しているのではない。農園主が労務者を雇い入れようと奔走する。神は夜明けを待って家を出、私たちのところに来られた。信仰は人間の側からではなく神の側から始められる。一片の手紙や人を介した言付けででもない。神自らが、人となられて出向いて来られて始まった(エペソ1:4、ピリピ2:6、7)。愛は犠牲をいとわず、出向く行動となる。それも一度ならず二度も三度、いや五度もである。それは神の側の必要からではない。夕方5時頃とは、人生のたそがれ時とも言えよう。もう誰も彼には期待しない。本人もあきらめきっている。だが、落ちこぼれの彼に神は近づき、なお期待して声をかけてくれる。取り残されている労務者への深い同情と憐れみからである。神は、その愛を示すにご自分のひとり子イエスを十字架にお付けになって、私たちを共に働こうとぶどう園に招いておられる(Ⅰヨハネ4:9)。

《ぶどう園に行こう》 

「あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」との勧めに、喜んで従おう。神のぶどう園とは、神の国のことにほかならない。福音が支配する神が統治なさる国である。入国の資格は悔い改めとキリストへの信仰だけだ(マタイ4:17、23)。キリスト者はみなこの神の国(天の御国)の市民で、その王は主イエスであり、今はまだその全容を見せてはいない。だがイエスの支配は始まっていて、彼に身を寄せ信頼して従う者を、最善に導き守る(マタイ28:18、20)。神の国の統治ぶりは、ぶどう園の農園主の労務者への賃金の支払い方に見られる。労働時間の大小によらず、わずか一時間程度の労働に、いや労務者にも、一人前の労賃を支給した農園主の寛大さである。神は人間の側の性格、年齢、経歴、能力と言ったものを問題にはしない。「この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。」(14)と言われ、みな等しく一デナリを与えた。このような神を主人に仰ぎ、汗を流して働こうではないか。「なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。・・・あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。」との神の勧めに従って、働こう。

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