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2014/02/23

2月23日メッセージ「湖上の嵐」

イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」
マルコ4:39~41(35~41)

《さあ、向こう岸へ渡ろう》 

イエスが神の国の福音を教えている間に、時は夕方になった。語る主イエスも聞く人々も、時を忘れていた。イエスは話を閉じられたのは、時間が来たからではなく、教えるべきことを語り終えられたからだ。現代人は時間の拘束の中に暮らしており、時間を守ることが誠実さと見なされてきた。だが福音は時間に優先し、人の都合の上位にある。主は必要なら夜を徹して働き、語られる。長い教えの後、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と主イエスは言われた。夜の湖を対岸の異邦人の地、弟子たちには無関係と思われる領域にも福音の種を蒔こうとなさる。「さあ、近くの別の村里へ行こう」(1:38)が主の願いであり、弟子たちはその言葉に従って舟を漕ぎ出した。主イエスを慕う人々も何隻かの舟に乗って従い、彼らも湖の嵐の目撃者となったのだろう。

《イエスに従ったのに》 

「すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」(37節)。弟子たちの中の何人かは漁師で、ガリラヤ湖の嵐は熟知していた。舟で湖を渡ることは彼らには容易なことで、イエスの助けなど不要なことと思い込んでいたことだろう。だが、この嵐の恐ろしさを知っていることのゆえに、弟子たちは恐怖に捕らわれた。イエスのお言葉に従って舟を出したのに、なぜこんな事態に遭遇するのか。神に従うなら不幸や災いに会うこと無く、従わない人にこそ災難が下る、そう考えるご利益宗教の考えを持つ人が多いが、それは皮相的な見方だ(ルカ13:1~5参照)。災難として思えない事態も、そこから神は真理を知らせ、善を生み出すことがお出来になる(ロマ8:28)。嵐もまた、神の計画の中にあり、当然、それを鎮めることも神はお出来になる。漁師として舟や湖に自信をもって自力に頼っていた弟子たちは、嵐を通してイエスに頼る者に変えられ、恐怖や不安を主にあって解決する信仰をここで学んで行った(41節)。

《信仰がないのはどうしたことか》 

嵐に沈みそうになった舟の中で、あわてふためいた。そして、イエスに信頼するのではなく、この事態に連れて来たのに自分だけ安らかに眠っている、どうして構ってくれないのか、イエスに向って哀願と非難の思いをまじえてわめいたのだろう。弟子たちは寝てはならないゲッセマネでの肝心な時に、苦悩し祈っておられるイエスの側で眠りこけ、主が共にいるゆえに安心してよい時にあわておびえる。真に悲しむべき罪に鈍感で、世的な小さな問題で悩み悲しむ。もっとも、そんな悩みが、人をイエスに向けるならば幸いだ。主イエスは、このような信仰のない弟子たちと、荒れる風と湖を「黙れ、静まれ」と叱りつけ、静められた。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われる。落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)を学ぼう。

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