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2014/03/02

3月2日メッセージ「ゲラサの狂人」

それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。
マルコ5:9、10(1~20)


《ただひとりのために》 

イエスが「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われて、大勢の聴衆を後に残し、夜の嵐の湖を渡り、対岸の異邦人ゲラサの地で活動を開始された。しかし、今回の伝道旅行で福音の恵みに与かった人は、悪霊に憑かれて狂人の様相を呈していた男ただひとりだけであった。主イエスの限られた貴重な生涯の中で、このお働きは失敗だったのだろうか。いや、私たちの主は、「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」(Ⅱペテロ3:9)、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」(ルカ15:7)と、たった一人の人を探して救い出し、ご自分の愛を注ぐに労を厭わない。この旅も、彼一人の救出に終わることを承知でなさったのだろう。ただ、人の目には失敗でも、生まれた小さなキリストにあるいのちは成長の可能性を秘めている(20節、4:8参照)。

《レギオンであろうと》 

朝の光に照らされた岸辺にイエスを迎えたのは、悪霊に憑かれ、「夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」異様な人物であった(5節)。しかし、彼は、というよりは悪霊がか、イエスを「いと高き神の子、イエスさま」と叫んでいる(7節)。異邦人がイスラエルの神を呼ぶ時の言い方だが、イエスが悪霊をも追い出し滅ぼすことも出来る方であることへの恐怖を覚えて願い出たのであった。主イエスは愛と優しさに満ちておられるが、先ず義と力に満ちておられる審判者であることを知らなければ、信仰というより情緒感傷に終わるだけだ。彼は名を問われると、「レギオン(五千人前後の重装備の兵からなるローマの一軍団)」と答えた。強力な悪霊たちの支配に、本来の名を忘れ、悪霊になり切っていたのだろう。しかし主は、彼をあわれみ、彼を見かけてすぐにだろうか、「汚れた霊よ。この人から出て行け」と命じられた(8節)。その結末が、豚二千頭の湖への突進と死であった。湖上の嵐も、人を破壊するような悪の力だろうと、神の国の王の支配に抵抗できるものは何もない。キリストにあるならば、誰もが回復される(Ⅱコリント5:17)。

《しかし人々は》

 ゲラサの住民は、悪霊に憑きの狂人が、「着物を着て、正気に返ってすわっているのを見」、「悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに」聞いた。その反応は「この地方から離れてくださるように」(17節)との退去要請であった。二千頭の豚の損失は決して小さくはない。だが、その経済問題と失われたひとりの人の回復の問題と混同するような人々に、主イエスは深く関わろうとはなさらず、そこを退去された。私たちが今大事にしている生活ぶりを、時には変える勇気が無くてはキリストを迎えることはできない(マタイ10:34~39)。

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