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2014/03/24

3月23日メッセージ「タリタ・クミ」

そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。
マルコ福音書6:35~43(41~42)


《あなたの娘は死んだので》
 
会堂管理者の要職にあったヤイロは、立場や世間体、これまでの経緯などどうでも良い、癒す力をお持ちのイエスにひれ伏し、ひとり娘の癒しを懇願した。イエスは彼の願いを受けて彼の家に急いだ。ところがその途中、長血の婦人のことで一行の足が止められ、娘の死の知らせが届いた。癒され祝福を受けて喜ぶ女の姿は、ヤイロの目に恨めしく映ったことだろう。使者は、「なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう」と続けて言った。娘が瀕死であれ、生きているなら癒しの可能性もあろう。だが、死者を生き返らすことは出来ない。イエスに来てもらっても無駄足だと。間に合わない、取り返しがつかない、もう駄目、私たちは信仰を持っていても、そうつぶやき、思い込む。だが、神には遅すぎるという門限はなく、不可能という限界もない。神に不可能はない(10:27参照)。

《話のことばをそばで聞き》
 
ヤイロに語った使者の話を、イエスはそばで聞かれた。「聞き流して」または「小耳にはさんで」と訳せる語である。ヤイロの娘の死をイエスは小耳に挟んだ、と理解すると、私たちが耳にする深刻な事柄を私たちの主も一緒に聞いて考慮してくださると言える。また聞き流すととれば、娘の死という深刻な事態をも問題とせず、癒そうとの足を進められたと理解出来る。私たちと共におられる主イエスは、激しい言葉や悲しい知らせでも、主も一緒に聞いてくださり、必要な助けを備えてくださるのだ。人には止めを刺すような知らせでも、一緒にいてくださる方は、「泣かなくともよい。眠っているのです」(39節、ルカ7:13)と慰め、「恐れないでただ信じていなさい、信仰だけを持て」と励ます。

《タリタ・クミ》 

ヤイロの家では、人々は取り乱し泣き叫んで、娘の死を悼んでいたようだが、主が「死んだのではない。眠っているのです」というと、泣き喚くことを止めイエスをあざ笑ったとある。死者や家族への深い同情と悲しみよりも、人への批判嘲笑の思いが勝る様子は悲しい。主キリストは死すべき者の死をご自分に引き受け、死を滅ばされた方である。人の死もひと時の眠りに過ぎないものに変えられる。だからイエスは、「子どもは死んだのではない。眠っているのです」(39節)と言える方だ。弟子と両親の見守る中で、主は娘に語りかけた、「タリタ・クミ。少女よ。起きなさい」と。眠っていた娘に声をかけて起こす平凡な日常語である。さらにイエスは、起きた娘のために食事をさせるように言われた。生と死の境界がないかのように、「時間だよ。起きて食事をしよう。」と言われた。このタリタ・クミという言葉と生き返った娘の話は語り継がれ、復活の希望の確かさを教えてくれる。このように語りかけてくださる主が、私たちの人生を一緒に歩んでくださるとは何と言う幸いだろうか。感謝である。

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