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2014/03/09

3月9日メッセージ「友とともに生きる」

ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
伝道者の書4:9~10(9~12)

人は孤独に耐えて育つ。周囲に囚われて立つべき所を忘れ、信念を簡単に放棄するようであってはならない。信仰者として時には孤立も覚悟して引き受けて行くことも必要だ。だが人は本来、「ふたりでともに」生きるように造られ、共に分かち合って暮らすものと計画されている。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)。「朝日はひとりで仰いでもよいが、夕日はだれかと一緒に眺めたい」とも言われる。ふたりはひとりよりもまさっている。
危険で困難な作業に、支援は欠かせない。ひとりでは不可能でも、友の助けを受け、二人してかかれば容易にできることも少なくない。「もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる」との言葉は真実だし、「どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす」ことで安心もできる。可能性も広がる。神は言葉を人に与えた。それが、豊かなコミニュケーションや深い友情を育み、「全地を従えよ」との広大な使命の達成を可能にする。コンピューターは複数台つなぐことで、計算能力が格段に上がるという。人は「互いにいたわり合うため」に、今ここにともにいることを弁え知ろう(コリント前12:25)。
仕事の可能性だけの問題ではない。愛する者がいると、人は強くなる。「母は強い」とは本当だ。また愛されている人は、生きる勇気を与えられる。冒頭の聖句の著者は、この地上には虚しさに満ちていると言い、「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる。それでも彼のいっさいの労苦には終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない・・・これもまたむなしく」と記している。しかし、「ふたりなら・・・」と希望に転じる。友情や家族愛は、生きる勇気と意味を与えてくれる。愛を知った人は、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と、新たな人生に舵を切って出発できる。
16世紀のフランスの教会では、毎年毎年「私の信仰上の友人は○○です」と登録することになっていたそうだ。信徒が、年毎に友人の存在を教会に申告するということは、信仰生活がひとりでは営み得ないもの、同伴者、同労者、伴奏者の存在が必要不可欠な要素と考えられていたからである。主は、弟子を「ふたりずつ遣わ」された(マルコ6:7)。ダビデにヨナタン、パウロにバルナバ、モーセにアロンをと、神は互いに助け合い、理解し合う友を備えてくださった。マリヤは神の子を宿す使命の中、エリサベツを訪問して深い慰めを得た。共感し理解合える人を、私たちは必要としている。神は、御子を友として与え、信仰の友をも備えて、その交わりの中にいてくださる(マタイ18:20)。友情は、真実の弱く不安な自分を、相手に委ねるところから芽生えるものだ。

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