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2014/06/01

5月11日メッセージ「神のお言葉に生きる」

こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
マルコ福音書7:15(1~13)  
 
《パリサイ人らのつますき》

 「パリサイ人たちと幾人かの律法学者が・・イエスの周りに集まった」(1節)のは、悪意をもってではなく、イエスの言葉に心を惹かれ、教えをもっと聞こうとイエスの側に寄ったのである。そこで、弟子たちの幾人かが手を洗わずに食事するのを見て失望した。福音に感動し教会に通ってみると、キリスト者の実態が見えて来てつまずくことは今でも起こる。偶像礼拝の排除や十分の一献金、損得を度外視して聖書に従うことなど、常識では考えられない生活ぶりにつまずく。手を洗うという昔からの言い伝えのように、常識を当然視しているからだ。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼(イエス)に信頼する者は、失望させられることがない」(ロマ9:33)。イエスは私たちの常識にメスを入れるつまずきの意思、神の御心に従う真実の人生に私たちを招く。

《神の戒めをないがしろに》 

イエスは彼らを偽善者と呼び、神の戒めを「捨て、ないがしろにし、空文にしている」と指摘なさった。つまり神を信じているという彼らの生活の中に、神の言葉は無効にされており通用していないと。「よくも:美しく」(9節)とあるが、醜く逆らっているようには見えない。見事に美しい仕方で、神の言葉を空文化していると言われた。手を洗って穢れた世俗に一線を引いているようにふるまい、そうしていない人々を批判し、また細部に渡って手の洗い方を云々して信仰深いと思い込み、肝心の神を仰ぐことを忘れている。手を洗うという言い伝えは、当初、神の民としての意識を明確化し、神に向かわせるものだったのだろうが、その手段だけが幅を利かせ、神を見えなくさせてしまっている(8、9節)。その例として、主イエスは「コルバン:ささげもの」を挙げる。親を敬えという神の戒めよりも、神を優先させるべきだから、親への義務を回避するという、まことに巧妙な抜け道を用意し、神の言葉を放棄できるようにしてしまっていたのである。昔の預言者たちも指摘している人の罪深さからの偽善である(イザヤ1:11~17)。

《心を神に向けて》 

イエスは「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」(6、7節)とのイザヤの言葉を引用され、彼らの心が神から離れていると言われた。それは今も同じで、私たちは、神の戒めを自分の生活に行き渡らせているか、神を忘れて礼拝をささげ、神を抜きにして神学論争をし、神の御心を尋ねもせずに会議で自分の意見をとうとうと語ってはいないか、神に許されている自分を忘れ兄弟を許さないということはないか等が問われている。これらすべてが、神に向き合わない姿勢から生まれる病状だ。この病からの回復のために、主イエスは十字架にお架かりになられた。神の言葉に支配される人間は、十字架の福音によってしか生まれない。聖霊の支配に身を委ねてはじめて、私たちは見事に、よく神に仕え、人と共に生きることが可能とされる。ヨハネ3:3、5参照。

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