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2014/07/13

7月13日メッセージ「八方ふさがりの中で」

そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
マルコ福音書7:33~35(31~37)

《異邦人の地で》 

この事件が起こったのは、カペナウムなどユダヤ人の住むガリラヤ湖西岸と反対側、デカポリスの村でのことだった。主イエスはツロからさらに北のシドンに向かい、そこから東南に道を辿り、ガリラヤ湖東岸のそこに来られた。それらはみな異邦人の地だが、イエスは求める者たちに伝道なさったのだろう。あのフェニキヤの婦人や、ここに登場する「耳が聞こえず、口のきけない」異邦人などに。
耳も口も不自由で、助けとなる神も知らない彼に、希望はなかった。右に向かうか左にするか、どの道が好ましく、より困難が少ないか等の選択があるならまだ良い。どこに向かおうと、何処にも希望も見出せない、ダメなものはダメの絶望しかないなら、そこに座り込むしかない。この主人公はそんな中に置かれていた。しかしイエスは彼を癒された。人々は「この方のなさったことは、みなすばらしい。」(37節)と驚き讃嘆した。これは創世記1:31と「見よ。それは非常によかった。」と同じような表現で、神の創造の御業が完全であるように、御子の力の現われも完全であり、恵みに満ちたものだった。しかし、その讃美の告白は、異邦人の口からであった。

《人々が連れて来た》

信仰は人間的には絶望だと思われるところから始まる。キリストの偉大なみ業は、ヤイロと長血の女、ツロ・フェニキヤの婦人の娘、そしてこの男のように、求める者に現される。絶望に中に沈んでいた彼を、周囲の人々はイエスの元に連れて来た。もしかするとその中に、5章に記されている悪霊を追い出してもらったレギオンと呼ばれていた人がいて、キリストに癒してもらおうと勧めたのかもしれない。イエスに行こうと励まして誘ってくれる人がいて、キリストの奇跡、救いに与る。時には中風の人を担いできたが四人の「信仰を見て」(2:5)とあるように、運ぶ者の信仰が用いられることもある。問題を抱えて悩む人を、イエスの元に連れて行く人の存在は、決して小さくはない。今も、その働きが求められている。

《天を見上げ深く嘆息し》 

手を置くことを頼んだ人々は、この障がい者が、耳が聞こえ口がきけるようになることを願っただけだった。ところが主イエスは、彼を一人連れ出して一対一となって関わってくださった。その他大勢のひとりとしてではない、無くてはならない大事な存在として向き合って扱って下さった。そして聞こえない両耳に指を差し入れ、聞けない口の舌に主のつばをつけた。深い同情を、悩む箇所に触れて伝えてくださったのだろう。「嘆息して」とは「呻いて、苦しみ悶えて」の意で、逆境の中でじっと辛抱してきた人間が、その忍耐の限度を超えて、相手の呻きを自分の呻き苦しみとして訴えてくださった(イザヤ53:3~4参照)。そして「エパタ」と言われた。それは耳と口が開かれるだけにとどまらず、もっと大事なものを見る目、無くてならない神の言葉を聞く事の出来る耳をも開いて下さる、解放の言葉であった。それは今の私たちの諸々の拘束に対しても、主イエスは命じておられることだろう。

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